小説「冷血」誕生にまつわる話なのだけれど、どうにもコメントしづらい。
作家と言う存在は、常に二面性(または多面性)を保ちながら、そこに内的な葛藤を見出し矛盾と戦いながら、対象に向かっていくものだと思う。
特に「冷血」はノンフィクションという性質を保っている限り、これはぬぐいされない大きな問題として自己にのしかかる。
常に、二人の自分がいる。
一人は自分を含めたあらゆる状況を冷静に分析している自分。
もう一人は自分が感じたありのままの感情を受け取っている自分。
後者はインスピレーションとして働いていて、前者は文章構築の際に役に立っている。
この二人の自分が奇妙な矛盾を生み出す。
直感的に物事を感じて動いている自分を冷静に分析していると、自分が計算高く動いていて、己の利益になることだけをしたいのではないかとか、他人のことなんてこれっぽっちも考えていないのではないかという冷静な判断や自己否定が、前者の自分が後者の自分へと囁きかける。
カポーティともなれば、「この小説を書けば、自分の成功は間違いない。この小説は必ず物議をかもし出す」という未来への打算的な考えも含めて行動している。
直感的に物事を感じている自分は、それを批判したり、そういうあさましい自分に傷ついたり、欲望と直情と計算と希望のあらゆる葛藤を含めながら、内的破壊も含めながら直情的に、かつ合理的に行動している。
その直情的に行動する自分を打算的にまとめたり分析したりしているの自分が、時として己に対して反乱を起こす。直情的な自分も打算的な自分へと反乱を起こす。
この両極端な二面的自己破壊行動がすべてのインスピレーションの源泉ともなりえたのだろうけれど、長い年月が完全に作家としての命をも奪ったことは間違いないと思う。
なぜ、カポーティが酒に溺れ、麻薬に溺れ、最後は死んでしまったのか、どことなく、わかりそうな気がして、妙な親近感を覚える。
映画の中で結構電話して色々なことを親しい人に直情的に話すのだけど、あれ結構文章書く前に重要な作業というか、話しながら自分の中のごちゃごちゃしたものを整理するので、私もよくやります。
観察眼が鋭すぎると、自他の微妙な感情もよくわかるようになってくる。自分がどのような気持ちで対象に接し、そして対象はどのように受け取るのかもある程度見通せるようになる。そして受け取った対象が今度はどのような行動へとうつっていくのかも、ある程度計算している。
その「見通し」の中に、あたかも「人を自分のために利用している」ような錯覚を受ける。ノンフィクションを描こうとする時、必ず自分の中で起こる「自己否定」と向き合わなければならない。これは「ジャーナリズム」とはまったく違って、自己の闇とも向き合わなければならない作業だ。だから優れたノンフィクションの文体は緻密かつ、適度に乾いている。自分をすり抜けて対象を宿すからだ。
計算しているならば感情を制御できるだろうという疑問が差し挟まれそうだが、もし本当の作家ならば、自分の「衝動」すらも絶対に否定しない。「衝動」を前面に出している時は、理論的であるよりも、もっと野生的だ。自分を含めたすべての対象が、テーマとなりうる何かを含んでいるから、己の感情すらも利用する。当然人とも衝突しながら、他者に強烈な否定を加えられながら、己の中の冷静な判断は研ぎ澄まされていく。
優れた作家はどうして死ななければならないのか。
優れた才能はどうして同時にそれ以上の苦悩を背負うのか。
それは美しいも汚らわしいも含め、その他者が己と何一つ変わらない「人間」であるということを、そして誰よりも醜い感情を、研ぎ澄まされた闇を背負うからではないだろうか、と、私は、思う。
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