だから俺は「執着すること」を捨て去ったのだよ。
新海誠は、大人のドロドロしたものをろ過するフィルターを持っている純粋な子どもなのだろう。
栃木は自分にとって、本当に思い出深い場所で、アニメに出てくるシーンには疑問を持つところがある。
那須高原までいかないと、本当に雪がない。
内地だからだ。
私は、冬に宇都宮に二度、行ったことがある。
ひたすら寒いだけの印象があった。
隙間風が部屋に流れ込み、限られた灯油で、生活費の心配をしながら暖房に火をつける音大生。
この自分の栃木での物語は、表面化して書くにはあまりのも問題がありすぎるので、思い出としてずっととっておくつもりだ。
宗教と人間のことを考えた。
必死にその子を理解しようと努めた。
でも、自分で耐えられなくなって崩した。
崩れる前に崩した。
男だけが過去に対してセンチメンタルな想いを持っていることが多い。
それは男のエゴなのだろうか。
俺は女の優しさは、あえて「期待を持たせない」「決着をつける」そういう現実感にあるような気がしてならない。
いや、男も女も、それぞれの人生がある。
そして、道が分かれたとき、接点を絶ったほうが、お互いのためだと思うのは、ケジメのためなのだろう。
象徴的に、思い出に決着をつけることで、ようやく新しい場所へ踏み出す。
人はそうして大人になっていくのだろう。
自分もやっているクセして、当たり前のやり取りに、どうしてだろうな、耐えられないときがある。
大人は汚れてしまう。
でも俺はもっと愚かしいと思うのは、己が汚れているクセして、他人の汚れを許せないことだ。
俺は最も憎憎しいと感じる。
他人の汚れを笑い、己がどす黒く染まっていくことにも気がつかないのは、己があざ笑っている対象よりも、もっともっと劣っているからに他ならない。
大人が愚かだから、子どもが愚かしくなる。
俺は子どもに夢を与える大人にはなりたくはない。
俺は、子どもたちを苦しめたい。
寄り添うつもりもない。
考える機会をたくさん与えたい。
純粋に、育てていきたいだけだ。
もうそうするしか、俺の未来に広がる空虚を埋めることができない。
時として母となろう。
時として父となろう。
俺なりの愛情を、示してやろう。
新しいものを育てていかなければ、俺は今まで犠牲にした、これから犠牲にするであろう数々のことに、示しがつかない。
[0回]
PR
http://asakaze.blog.shinobi.jp/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%85/%E7%A7%92%E9%80%9F%EF%BC%95%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB秒速5センチメートル