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あさかぜさんは見た

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03/05

Sat

2011

誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功の法則



私が知る限りでは、資本主義社会における成功法則を世界で最初に打ち立てることができたのは、アンドリュー・カーネギーの依頼を受けて「成功法則」を完成させたナポレオン・ヒルだろう。
その「成功法則」にも、この本にも特に難しいことが書いているわけではない。
特にこの2冊の本は、すぐにでもできる簡単なことが書かれている。

一番最初にナポレオン・ヒルの本を読んだ時、精神的にとても辛い時だった。
行動することそのものに対してとても苦痛を感じ、長続きせず挫折し、余計にネガティブになっていて、当時の私にとっては「自分をダメにする本」だった。

というのは、すべての行動の前段階となっているのは「精神」であって、肉体ではない。
その精神がボロボロであるならば、精神の癒しが必要なのだ。
精神がある程度ちゃんとしていなければ行動するだけで精神が痛めつけられる。
だから精神の癒しには、ネガティブなものを遠ざけていく必要性がある。
つまりそれは自分の言葉であったり、他人の存在であったり、ネガティブにさせる対象であったりする。
その環境を完璧に用意することは非常に困難だが、減らすことはできる。
そして、大事なことは自分の小さな「成果」を絶対に否定しないことだ。

日本人は完璧なものを要求するふしがあり、それは「成果」や「評価」や「対比」であったりする。
そしてあらゆる基準で自分を見られ、その基準に当てはめて自分の人間性まで自己評価しがちだ。
しかしこれは間違いなのである。
当然「社会の評価」は生活というものにも関わってくるし、この「他人の目」や「評価」という呪縛は、平均から劣っている人間にとっては苦痛だし恐ろしく重苦しく、酷くなれば生きている意味すらも否定してしまうほど強い。

この呪縛を取り払うには非常に時間がかかるが、「評価」というものは「ある一定の”審査基準”に当てはめて見られるもの」であり、当然「将来の自分」でもないし、「自分が持っているすべて」でもない。
ここに「呪縛」から逃れるチャンスがある。
つまり通常人の思考はこの呪縛の中に入ると「相手が設定した基準の中で努力しようと行動しだす」ものだが、呪縛が解けると「評価ではくくることのできない自分」を高めようとすることができる。
そしてそこまでいきつくことができれば、後は小さな積み重ねを徹底的に視覚化し、声に出して褒め、他人の評価を受け流しながら自分の魅力や長所をとことん伸ばしていくことができる。

しかし、会社組織で働いていると、必ず「評価」を口に出し、優劣をつけられ、ネガティブな思考を植えつけられがちだ。
会社人にとって時間は「流れているもの」ではない。
「区切られているもの」だ。
だから会社人にとって一番大事な考え方は自分の時間をいかに区切って整理していくかにかかっていると思う。
これは色分けして視覚化していくとすむことだが、大事なポイントは「完璧主義」に決してならないことだ。
無理の無い計画と時間の融通性、小さく見積もって±10、多く見積もって±20ぐらいの時間の融通は欲しい。
融通性は計画にも欲しい。
一日の計画として、これもやはり完璧主義になるのではなく、自由にプランを足したり引いたりできるとよい。

私はここ最近は自分でできたプランには金色のマジックでできた内容をカレンダーなどに書いている。
それがたくさんできると結構圧巻だ。
私は計画を立てるとその通りにできず、逆に落ち込むので曖昧にしか計画は立てない。
私にとってはこの「曖昧さ」がちょうどいいのだ。

この本を読んでみて気がついたのは、昔はやることでさえ苦痛であったのが今は半分くらいは自然にやっていた。
どうしてだろうと考えたのだが、無理をせずに自分の現状を徹底肯定していたからだった。
まず他人の評価、自分の実績、これらの「評価」に値するものをすべて頭の中から取っ払った。
そして自分の環境、レベル、実行したいもの、足りないもの、などを冷静に分析しだしているのかもしれない。
最も変化してきているのは、苦痛だった「行動」に喜びを少しずつだが見出せるようになってきていることだろうか。
行動することにおいて「快」の感情はとても大事だ。
だからこそ小さな成果には他人のことなどおかまいなしに、一人でそっと自画自賛してあげればいいのだ。
そんな「小さな違い」を見つけてあげることができるのも自分しかいない。
他人は「大きな変化」しかわからないものだ。

日本人の多くは「失敗」を「取り返しのつかないもの」として考えがちだが、「失敗」こそ「英知」なのだ。
この失敗に対する反省を繰り返して人は大きなものへと近づいていく。
失敗以上に優れた師匠はいないのに、この失敗をネガティブに捉えるとは、とても残念なことだと今の私なら思う。
特にこの手の失敗を悪く言う人間は「破壊者」でもあるので付き合いは考えたほうがいい。
失敗は自分だけにしかできない貴重な体験だ。
失敗を恐れず、どんどん行動していくことこそ、自らの人間性が輝いてくるものと私は信じている。

あなたが若ければ若い方がいい。
「評価」という呪縛から自分を解き放ち、より輝く人間になるべきだ。
そして良い人間とは、他人を生かすことのできる人間になるということだ。
あなた自身が他人を殺す「破壊者」に進んでなってしまってはいけない。
人を生かすことこそ、最も素晴らしい経験と人間性であると私は信じている。
一緒に頑張ろう。




P.S.
自信ってのは根拠がなくちゃ役に立たない。
その根拠は最初は他人の評価に頼らない根拠でなくてはいけない。
この根拠を客観的に列挙できるようになろう。
そうすればあなたは誰も知らない強みを得たことになる。
次はどうすればそれが活用できるのか、武器として、防具として役に立つのか考えよう。

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02/25

Fri

2011



第144回芥川賞受賞作品。
ということで、一方の朝吹真理子とは違い、やたらとテレビに西村賢太の名前が出てくるし、ネットで共感する人多数、のような報道のされ方もするので、さていかなるものかと今更ながら読んでみました。

…久しぶりにぞっとする文章だった。
こりゃ凄いわ、というのが第一印象。
これをまともに読んだら本当にこっちまで鬱屈してきそうだし、一人の人間として見たら吐き気もすれば、こちらが持っている負の感情をあおられるようで読めない。
私は芥川賞受賞に対して「ああ、芥川賞ってまともだったんだ」とこれを読んで思った。
つまりいい意味で「ぞっと」させられた。

ある意味日本版「ファイトクラブ」のような男性的な暴力性を感じたし、「火の鳥鳳凰編」の我王を彷彿とさせられた。
というのは、この話は私小説とはあるが、作者の側から見れば当然「日記」ではない。
だから破天荒な人生を送ったからといって、この手の小説が書けるかといったらそうではなく、当然文才も必要だし、一歩引いて自らを事細かに観察する他人の視点がなければ書けるものではない。
通常人間は自分をモチーフにする時、必ずどこかで美化するが、これにはない。
ある意味達観した境地がある。
よく読めばこの話が一本の時間軸にいる「自分」というものをばらばらにして意図的に編集されているのがよくわかるし、主人公にいたってはデフォルメした後にさらに戯画化されているのがよくわかる。
つまり題材は自分でも、その自分をいかに切り貼りしていけば、この手の人物像を戯画化できるのかという意図された小説だということがよくわかる。
それだけにここまで圧倒的な筆力でガツンガツンと掘り込んでいく、力任せの掘り込み方は、そう他の作家が簡単に持てるものではない。
それは自分自身のリアリティというものを戯画化しているからに他ならないからだ。

当然個人の立場から見ればこんな男とは友達にはなりたくない。
扱いに困るし劣等感に触れれば怒るし、卑屈を感じさせる対比があれば不機嫌になるし、このような人間が心底友達だと思えるのは自分よりやや酷い生活を送っているか、まったく同じような劣等感を持った憎しみと怒りと卑屈さの塊のような同種の人間とだけだ。
男性でさえこの手の人種は嫌な感じがするのに、女性が読んだら心底男性不信になると思う。

この負のエネルギーたるや半端なく「美しいものをぶっ壊してやりたい」という昇華されぬ暴力性がとにかく生々しい。
そりゃあ男性だから自慰もすれば、アイドルかなんかの写真を見てしたり、劣等感があれば卑屈なエネルギーを爆発させて高飛車な女を犯し、顔に射精でもしたくなる、という妄想は一度はあるんじゃないのかなと思うがどうだろう。
映画の「ファイトクラブ」を見たときも感じたが、男性には得も知れぬ暴力性というものがあって、それを現代風に昇華している。
それが「仕事のできる」ことであったり「出世」だったり、何かを通しての「名誉」だったりする。
やたらと男性がそういうところにこだわったりするのは野生時代の狩猟本能を現代風に変化させているからだという説がある。
だから獲得していく充足感がないと、とことん腐っていくし、腐ったものに昇華されぬ暴力性が乗っかり余計にたちの悪いものになる。
女とよくしている男友達に嫉妬したり、何かと比べて俺だってこうなってもいいんじゃないかと勘違いしたり、うまくいかないことに苛立ちを覚えそれを抑えることなく他者にぶつけたり、となるわけだ。

また我王を思い出したのは、このダーティーヒーローは生きていこうとすればするほど、自らの過去が因果となって降りかかり、逃れようもない災難をこうむっていくという、結局は最後まで愛されぬ実力者になっていくのではないかと思ったからだ。
実際我王は鼻の薬を塗って懸命に愛してくれた女性を疑心暗鬼から切り捨ててしまう。
その後の話は結構有名なのでここでは割愛する。

等身大の人間として読むと嫌悪感を催すのは当たり前。
でも、一歩引いて見ると、小さな、まことに小さな人間の、自らの痛みに耐え切れずのた打ち回り周囲を傷つけることしかできないこっけいな話ではないか。

この本、後半にもう一編ある。
『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』という川端康成賞候補になった時の話だけれど、この作者としての劣等感、よくわかる。
「俺のほうが実力があるのに、なんでこんなやつが」という「俺だって頑張っているし、こいつはただ運がいいだけじゃないか」というね、この手のね、嫉妬心ね。
よくわかりますよ。ええ。
この手の嫉妬心を本当に臭ってくるようなものに乗せて書いてくるという、えげつないセンス。
いやあ、凄いものを読ませていただきました。


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02/19

Sat

2011

ルポ 貧困大国アメリカ



ちょうどこの本が出た3年前に、私は2ヶ月ほどアメリカにいた。
2005年2月のことだ。
写真を見つけて確認したので間違いない。
今から6年も前のことになる。

その時ホームステイをしていた。
ホストマザーが私が洗濯機や雨季だったため乾燥機を使うことに目頭を立てて怒った。
「私の家は貧乏なのよ!」と血相を変えていたのを思い出した。

少なくとも私が見ていたのはカリフォルニアのスタンフォードなどもあるサンフランシスコの少し北。
ここらいったいは学生の雰囲気があり、私のいた地域はのんびりした雰囲気もあった。
スタンフォード近くになると、学生も多くなるし、行き交う人が学生を受け入れていた。
電車の中で(電車の中に自転車を持ち込んでもいい)席に座っていたおじさんが学生に「お前その自転車どうしたんだ」と話しかけ会話していたので知り合いかと思ったらそうじゃないらしい。
そんな風に普通になごやかに成り立っている地域だった。

2005年の州知事は映画でもおなじみのシュワルツネガー知事。
市民活動家がサクラメントの知事のいる建物の敷地内でスピーカーを用意し「(ダム建設反対に際し)やつは鮭を殺すアーノルド・ターミネーター・シュワルツネガーだ!」と叫んでいた。
集団の中でかわるがわるダム建設反対についてマイクでしゃべる。
そういう活動が堂々と認められているらしい。

サンフランシスコ、このサクラメントでもそうだったが、ホームレスがごろごろいた。
友達と歩いているとサクラメントでホームレスに話しかけられ、「何か食べ物ないか?少しの小銭でもいいんだ」とはじめての体験をした。
そのホームレスは丸々と太っており、日本人の感覚として「そんなに太ってんだから、食べ物少しくらいなくても大丈夫だろ」と思った。
後ろから2人組みのホームレスに追尾されたこともあり、「ついてきているけど、なんかまずくない?」と話し合い足早に逃げたこともある。
特にサンフランシスコは見た目で治安のやばそうなところがわかる。
落書きが多くなり、ホームレスが多くなり、ゴミが散乱している。
見た目からして「荒んでいる」のがわかる。
だから興味本位で近づくのはやめていた。

食生活にいたっては日本食に慣れていると、アメリカのスタンダードな食事は「これ死ぬよね」という思いがした。
しょっぱい、脂っこい、甘い。
ミネラルウォーターよりもスプライトやコーラが安く、ファーストフードなど安いものは高カロリーのものであふれていた。
ホストマザーは食事の中に当然のようにお菓子(チップス類)を入れてきた。
さすがにこの食生活では太った。
ダイエット番組でも筋肉隆々の男が「これが俺のダイエット朝食だ!」と自慢げに卵やサワークリームなどでいっぱいの皿を見せられた時には目を真ん丸くしてしまった。
日本食ってカロリー栄養バランス共に優れているのだなとつくづく感じたものだった。
そして日本人は食生活共に恐ろしいほどの贅沢な環境にある。
最低限、水がクリーンで安全で、おいしいところさえもあるというのはとても幸福なことだ。

私がアメリカから帰ってきて3年後、この本が出た。
医療格差と保険会社の詐欺的行為や低所得層による肥満問題、戦争ビジネスの問題を浮き彫りにしている。
すべては中間層がことごとく低所得者層に落ちていき、這い上がるチャンスさえもないということだ。
その貧困問題が最低限の生活の保障を犯し、教育の格差も生んでいる。
そして民間企業による貧困ビジネス。
骨までしゃぶっていくかのような所業。
医療問題や貧困による教育格差、低所得ゆえにバランスのいい食事が取れず高カロリー食品をメインにとらざるを得ない状態、そこまではアメリカで多少暮らしていたから「ああ、あの延長線上にもっとひどい状態があるのだな」と想像できる。
しかし最もぞっとしたのは民間企業による傭兵派遣だ。

ゲームで「メタルギアソリッド4」というのがあり、このゲームでは民間企業による代理国家戦争というのを描いていたけれど、これを思い出した。
民間企業に個人情報がすべて「パッケージ」として細かにデータとして知られている上に、このコンピューター社会による、マイナス面がもろに出ていた。
我々の行動記録はほとんどデータとして法人や国家が管理している。
その情報はひとつの「パッケージ」としてまとまって管理されているわけだ。
「流出」でいちいち騒いでいるけれど、民間企業ならば倒産や合併後の情報管理までは制御しきれないと思う。
そして生活に困窮していれば、金を積まれれば個人情報は売ってしまうのではないのか。
そういう個人情報による「個人の格付け」。
借金状態から返済履歴、収入や現在の生活状態、家族構成、病歴、交友関係、購入物品履歴などなど、すべてのものが利用できる「パッケージ」として存在し、それが民間傭兵派遣会社に利用される。
高収入をうたい、最前線に派遣し、つかい捨てる。
これらはすべて低所得層がターゲットにされる。

この手の動きは戦争を放棄している日本とも皆無ではない。
戦争に参加しなくても、巻き込まれる可能性すらある。
そして日本人だって生活に困窮すれば悪魔に魂を売る人間だって出てくる。
これからの日本はアメリカのような国に巻き込まれてはいけないし、お金さえあれば何でもできてしまうような状態の中で他人の人生を金のために利用するような悪をのさばらせてはいけない。

アメリカは確かに自由だった。
しかし6年もたってその面影もなくなっているのかもしれない。
このことは私がいた6年前のアメリカが貧困社会への過渡期だったとしても、ものの数年でガラリと変化してしまうくらい国家というのはさじ加減ひとつで不幸な人間を数多く作り出すという教訓を肝に銘じておかなければいけない。

予断だけれど、これからの時代、貧困層は「現実」であえぎ、富裕層はより浮世離れしたバーチャルな世界で人生を謳歌するという2極化が起こるかもしれない。
もしそうなったら、貧困層からは偉大な政治家は資金力の問題で出てこないだろうし、お金を持っている人間は現実感がないから、いつまでたっても溝が埋められない。
こういう単純な構造に陥ることだけはよして欲しいと願うばかりだが、アメリカに似てきている日本は、これからどうなるだろうかと心配するばかりである。


P.S.
医療の問題に関してはマイケル・ムーアの「シッコ」。
マクドナルドの高カロリー食品のとりすぎによる内臓機能低下についてはモーガン・スパーロックの「スーパーサイズ・ミー」がある。
合わせて見るといいかもしれない。


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01/31

Mon

2011




ああ、買ってから数年は積んでいた記憶が。
いつ買ったんだろう。
あったのは知っていたし、読もうとは思っていたものの、後回しになっていた。

読んでみて、強く印象に残ったのは「これは童貞小説だな」と。
読んだ後どうしても「僕」といいたくなるのは、やっぱりこの「春樹節」が効果覿面に染み込んでくるからなのだろうが、やっぱり僕は村上春樹が今は少し苦手なのである。

村上春樹文学に触れた時、特によく感じるのは「ぼやけた曖昧さ」である。
この妙にはっきりとしない感覚がなんとも嫌で、「それはなんなの?」と言われてもうまく説明できない。
つまり、たとえば作者の立場として「僕はこうだと思うし、こうしたほうがいいし、こうあらなければならないと思うんだ。でもそれは僕の考え出し、君は君だし勝手にすればいいんだよ。これは僕と世界の問題なのだから」という距離感。
そんな距離感を取りながらも、さらに「僕と世界は繋がっていて、世界と君は繋がっているのだから、僕と君の関係は無関係とは言うことができないんだ」という、このあいまいさ。
「ああしろ」「こうだ」「あっちへいけ」というメッセージがあるようで、ぼんやりとにじんでいく。
それはまるで、インクで書かれた文章が水につけたらぼやけていくような、すりガラスの向こうで裸らしきものを見ながら想像するような、もどかしさがある。

村上春樹文学を読む時に、みんな深読みをする。
それは春樹の文章そのものに、あらゆる「メタファー(隠喩)」があるからに他ならない。
その散りばめられたメタファーを繋ぎ合わせてパズルのように読者は深読みするのだけれど、ネット化、グローバル化、なんでもよいけれど、この繋がっているようで繋がっていない、でもそれらは世界に存在しているという世界観こそ、僕らが世界を再認識する上でとても大事なことで、でもそれは感じるだけで終わってしまうような、そんな「感触」が残るために春樹の文章をみんな深読みするのだと思う。

僕はこの小説を「童貞小説」だと言った。
僕は男なので女性のことはわからない。
でも「童貞」というのは、リアルのセックスをしていないから、あれこれと女性とのセックスのことを想像する。
そのエネルギーは様々な方向へと飛び火して積み上げられていく。
それは、あたかもあらゆる「メタファー」が存在しているかのように、辞書の中の卑猥な単語に興奮を覚えたり、夏の薄いブラウスの中に透けた下着の色を見て興奮したり、アイドルの写真の水着姿の胸の大小や、股間や太もものあたりに妄想が膨らんで、夜な夜な淫らなストーリーを作っていくという、無限の想像力に満ち溢れている。
少なくとも、淫らなことまではいかなくても、片思いをしたら、純粋に頭の中でデートを楽しんだり、こうだったらいいのに、という純愛に浸りきったり、「童貞」は「体験していないからこそあらゆる方向に向かって想像を膨らませることができる」という「無限のエネルギー」を持っている。
しかし、これがセックスを体験したら違う。
嫌がおうにも現実に直面するし、傷もつけられるし、思っていたものよりか遥かにかけ離れていることは避けられない。
自分の望んだようにセックスできたり恋愛を進めていくことはできないのだ。
もし、そうなってしまったら、もう「童貞のように妄想を膨らませることはできない」。
いくつかあった力の進行方向も、現実の中でできた「傷」や「現実感」そのものに塞がれ、エネルギーの方向性が徐々に定まってくる。
それは生きていくうえで避けられない体験であったり現実感であったりする。
僕らは一度「門をくぐって」しまえば、もう門をくぐる前の景色に戻ることはできない。
それは「童貞が現実を知ってしまった」かのように。
僕たちは「生きる」という行為を通して常に何かを犠牲にして、そして何かを得ている。
この選択した現実はどのように誤魔化そうと避けられないことだ。
その犠牲の出し方や、現実の選び取り方が、僕らの人生そのものに影響していく。
『海辺のカフカ』は、『童貞喪失』の話でもあり、『門』でもあるように思う。
だから思春期の人たちに絶大な人気を得るものだと思うし、誰もが通る道だと思うし、そして「いつかは卒業しなければならないもの」だと思う。
ある日僕らが卒業アルバムを開いて、あの時はあんなこともあったし、こういう風に生きていた、でも、もうここには戻れないのだよな、という現実を積み重ねてきた自分と確かに世界に存在しているものへの対比をしながら、時には今生きている自分を戒めたり、時には懐かしさに浸ったり、また何もかも知らないかのように「あの頃の何も知らなかった自分を思い返しながら世界と自分を見つめなおす」という作用が、この小説にはあると思うのだ。
そしてその時、はっきりと自分が何を「喪失」したのか理解する。
この物語の中にはメタファーは確かに強く存在している。
しかしそれらのメタファーをどう取るのかは、すべて読者にゆだねられているもので、それだけにあいまいでぼやけている。
なんとも言えない御伽噺のような世界観は村上春樹ワールドでしか味わえないものだけれど、僕にはどうしても、あいまいさゆえの苦手意識が取れないんだ。

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04/30

Fri

2010



あげると言われ、いただいてしまったので、ちょっと感想を書こうと思った。

ちなみに138回直木賞受賞作品。
各選評はこちら。
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/senpyo/senpyo138.htm

そもそも芥川賞とか直木賞とか、お前ら作品に与えてるんちゃうんかい、と大阪弁で突っ込みたくなるのだけど、まあ脱線しそうなのでやめるとします。

このお話、時間がどんどんさかのぼっている。
それぞれ章ごとの主人公は変わっていくのだが、とある古典が思い浮かんだ。
げ、げ、げ…喉まで出掛かるが「ネタばれ自重」とか言われたら困るので書かないでおく。

うーん…どう書こうか悩んでいる。
選評には「現実性に欠く」とか書いてあったけど、それは作者の描写力が追いついていないのが一番の原因かと思われます。
特に過去にさかのぼるという構成が逆にこの作品の欠点をあらわにさせたかなというのが素直な感想。
中盤までは「お、おお…」と思ったのに。
あ、スケベなだけか。

真面目なことを書くと全編に渡って「大人の感性で貫かれている」というのが一番の失敗。
なぜならば「過去に戻る」ということは、より「子供の感性」に戻っていかなきゃいけない。
特に最後の章は一番古いのだから、もっとぞっとするような透き通った純粋さが欲しかった。
この点だけは画竜点睛を欠く結果となってものすごく残念。
だから一番最後に近づく文章も「無難にたたんだ」という印象がぬぐえなくなる。
もしその結晶化された両者の衝動が見事に最後に描写されていれば誰もが称える傑作となった可能性もある。
これから始まるすべての「予感」と「直感」なるものがものの見事に凝縮されていたらってことかな。
もうそれがあったらスタンディングオベーション。
さすがのじゅんちゃんも少しは納得したんじゃない?

それともうひとつ気になったのが、すーっと事象が走っている。
つまりわかりやすく言うと、急転直下、V字上昇、が隠れているんだぞという機微がやや足りないような印象があり、読み終わっていつまでもぞっとして忘れられないような怖さがない。
あー、あの二人の犠牲はなんであったのか。
やるならやるなりの「意味」をもっと深く抉りこんで書いて欲しかった。
それはあくまでこの話をドロドロネチネチさせないための作者の腕を見せ付けており見事というほかないと見れば、そうかもしれない。
他の作品と比べるのはダメだとは思うけれど、どうしてもあのドラッグとセックスの青春を描いた芥川賞作品と比べるとどうしても描写の奥行きがないんだよなぁ。
あっちのほうが明らかに文章は下手なのに下手に作ってない分だけ緊迫感がある。
まあ、あれは実体験だったから…ということを考えなくても書きなれているのだからその迫真さ、緊迫感はもっと欲しかった。
色々盛り込んであってひとつの「作品」としてこの小説を捉えたとき、作中に登場する人物たちが主要人物を目の前にした時の一種の「慧眼」「感覚」のようなものが深くは見えなくて、御伽噺なのではないか、という印象を持つのもわかる話だ。
入り込んでいきそうですっと描写が深いところからそれていく。
なんでだろうなあってずっと読みながら思ってた。

どうしても、とある古典の話が…
それが頭の中でだぶって見えてしまって、他の読者のように驚きに満ちたものではなくなってしまったのだけど、何も考えないで読むのがよかったのかなと思った。
むしろそれがあったために「やっぱりね」ってことになってしまった。
ある程度章の題名から話の筋は読み取れるものの、「性」が内包している「死」という「暴力性」に完全には踏み込めずに、その表面を丁寧に映し出すのみになってしまった。

私も作中の人物のように叫びたい。
「おじいちゃーん!あーっ!」


そしてここからは色々思い出したことを書きたい。

「中指と人差し指」

読んだ方はわかるとは思いますが「女の匂い」ね、わかります。
といっても「女」ってよりも「牝」っていうのがいいのかも。
中を探って肉のすべてが反応するようなところを当てていくみたいなものから、だんだんとわかってくると悦を与えられるようになる。
艶が絡み付いた後、乾いてくるとパリパリしてくる。
そのままコンビニで酒を買ってきたことがあるけれど目の前の店員はそんなことわかるわけない。
さらけ出す必要性なんてないけれど、装いながら生きていることを感じた瞬間だった。
秘密をたくさん持つと、しゃべりたいことが逆に少なくなってくる。
ゆきずりの女を抱くのとは違って、もっと濃いものを感じながら抱くときの得体の知れない未来への予感っていうのは普通の感情の波よりも津波に体を押されているようなものなのではないのかなと感じた。
こういうのを読むと無性に異性を無茶苦茶に抱きたくなる。
あ、でも「作品が影響を与えた」のではなくて、これは自分の中の「暴力衝動」を刺激するから。
孤独で、切なくて、どうしようもないやりきれなさと、何もかも壊してやりたい暴力性が渦巻いてくる。
これってさ、作品を読んだから助長されるわけじゃなくて、持っていたものなんだよね。
その持っていたものが刺激される。
なければよいのだけど、もう消えそうにない。
そんな「よくない感情」を抑えるのは人の力だと思っている。
それも、限りなく肌と肌が近い力。
そうじゃないと、ダメだろうね。
抑え込めばかたがつく話でもないんだよ。
こういうのって。


というわけで、今回の読書感想文おしまい。


追記:
結局ね…少しネタばれになるけど「血の濃さ」っていうのは、そんなもんじゃないだろと。
もっと他人が理解できないような巨大な恐ろしさみたいなものがあって、当人同士はその二つの魂が限りなく一つになりかかるような暴力性っていうのをもっと肌身で感じている。
その深い谷底のような得体の知れなさっていうのは「湖の底にゆれる藻」程度の描写じゃとても足りないってこと。
でもさ、直木賞ってエンターテイメントに送る賞でもあるから、これはこれでいいんだよね。
きちんとエンターテイメントしている。
映画視点だし。
普通は「嫌悪感」があるわけでしょ。
それがなぜなくなるのかっていう深い背景は説明しなくても描写の端々から恐ろしいほどに感じさせないといけない。
そのぞっとする、その感覚を得たのだと読者を納得させるところまではこの作品はいってないというのがとても残念なところだったっていうことです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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