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あさかぜさんは見た

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02/25

Sat

2012

第146回芥川賞受賞作 「道化師の蝶」 円城 塔




※今回も文藝春秋からなので「道化師の蝶」のみで。

わからない。
腑に落ちない。
おーーーいに疑問が残る。
今回の芥川賞受賞の最大のミステリーだ。
なぜ、審査員が理解もしていないものが芥川賞をとれたのか。
じゃあ誰がこの作品を理解していたのか。
誰が審査員たちに、この作品を推したのか。
首を360度ひねっても部外者にはわからない事情だ。

さて、個人的には久しぶりに頭を使った。
そして最初読んだとき、審査員のコメントも頭に残っていて「量子論」も取り入れたのではないかというイメージがこびりついていて、作品への純粋な理解を拒んだ。
そして「もしかしてこれは言語論を少し越えて言語とそれにまつわる事象が脳内でどうインプットアウトプットという処理をされているのか」まで突っ込んでいるのではと思った。

審査員たちのなるべくこの作品に言及したくはないあたり、どうにも日本の小説は「ストーリー」ありきで、そこに記号的な暗喩を用いてパズルめいた小説とすることには理解がないらしい。
amazonでも混乱ぶりがよく見て取れる。
そして、その混乱ぶりこそ、この「道化師の蝶」に書かれているテーマたる「言語論」であり、示していることである。
はてさて、「言語論」と言っても何のことやら。
簡単ではあるがテキストとしては

記号工学研究室、初心者のための記号論の中にあるテクスト間相互関連性

がヒントになる。

動画では50分近くあるが、

【ニコニコ動画】哲学の「て」 第17回 MADとコメ職人でわかるポスト構造主義テクスト論


がヒントになる。

最初頭をよぎったのは「もしかしたら何か参照にした論文が存在するのではないか」という疑問だったが私の頭では見つけられそうにない。
とりあえずは上記のリンクで精一杯だった。

この小説では「記号」というものが大事になる。
登場人物は人物ではなく、何かを暗喩している「記号」となっている。

大前提として「我々は意味など共有しあっていない」ということだ。
たとえば同じ言葉でさえも、それぞれ解釈が違ってくる。
そして言葉に対する使い方さえも違うのだ。
言語を覚え、それを使用するとき、私たちは「生涯同じ意味で使いつづける」ということはまずない。
そして言語は他者へと伝えるコミュニケーション手段としての「道具」として使われる。
他者に向かって使用されたとき、他者の中で言語は変容し、意味の感触は変えられて受容される。
だが、二者間の間では、その共有されているであろう幻想を持って、我々は伝えあっていると認識している。

例えば三人いたらどうだろう。
三人の中で言葉がやりとりされるうちに、個々人の当初の意味合いにおいて言葉が使われるのではなく、三者がそれとなく了承しあった意味に最後には変わっている。
もしかしたらその最終段階に至るまでに喧嘩が起きるかもしれないし、あらゆる類推がなされるかもしれない。
そうしてようやく言葉は個人を離れて「三人にとって意味のある言葉」に置き換えられるのだ。
その時個人の脳内では当初に意識していた言葉の感触や意味合いは完全に保管されているであろうか。
残念ながら完全に崩されているはずだ。

テキストというものを暗示的にも明示的にも他者へと使った場合、「意味を伝えようとする意図」が既に他者に伝わった段階で壊されている。
「当人が思っていた意味」が「他人の意味」に置き換えられてしまうからだ。
言葉を扱うことは意味の純粋性を壊し、意味や意図を伝えようとする目的からは矛盾している。
それでも、ある一定の妥協点において言葉を二者間、あるいは三者間の間で妥協しなければ使用できない。

そうして「他者との妥協によって生まれた言葉の意味」は「テキスト」となり、また誰かがそれを行い、となる。
この作用は半永久的に続く。
この連鎖性こそ「存在しない生き物」のように変容していっている言語性質となる。

まあ、簡単に説明すればこんなところ。
でもこの感想とて、この小説と同じように「なぞっている」に過ぎない。
安部公房の名前が出てきて、円城塔作品はもしかしたらロシアなどの海外で高く評価されるのではないのかと思ったが、まだまだ作品の質としては「入り口」に過ぎない。
これ以上難解になると読者がついてこれないのではないかという批判も出てくるだろうけれど、私自身はこのような作品が評価の対象になることは嬉しいし、ちょっとした「問題」を出されているようで興奮する。

私は言語論のことなど知らなかったが、読みながら「量子論も組み込めるな」と思った。
その時、作品として書かれたテキストの中で作者が「死んでもいないし生きてもいない状態」を示せるとしたら、一体どんな小説を書くのか。
私は作者として作品作りに対して実感していることは「テキストは作者を越えられず、作者を模倣しようとする」ということだ。
ここにどういった力を加えて錬金していくのか、伊藤計劃作品を仕上げた後に大きく脱皮するのか、ひとつ読者として楽しみができた。

今日はこの辺で。

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02/18

Sat

2012

第146回芥川龍之介賞作品「共喰い」 田中慎弥 



第146回芥川龍之介賞作品。
すいません。今回は文藝春秋からです。
なので「共喰い」のみで。

キャッチコピーは「泥河の鰻とセックスと暴力と祭り」といったところでしょうか。

最初の感想としては「ああ、こういう際どいテーマ持ってくると必ず嫌悪感示す人いるんだよな」と思ったらやっぱりそうでした。
予想通りの反応とはいえ、会見のVTRもあってか、嫌悪感が先にきてまともに読めない人多数。

というのも男性作家が書いた「セックスと暴力」となると必ず「男性的視点から」というのがセオリーというか、だいたいの作品というか。
そうなると当然女性側が男性の欲望のままに、いいように扱われているイメージって持ちがちになるのですよね。
そこをしっかりカバーしないと「作者の都合よく人物が動かされている」と言われたりします。
これは女性作家にも言えることなのですがね。

そして男女とも嫌う「汚さ」というのもあり、汚れた河で釣り上げた鰻を食すというのも読んでいて嫌悪感をより一層抱くポイントでもあります。
男性が鬱屈していて我が強い、協調性もないとなってきたら、気持ちよくは読めないでしょうね。

何にせよ、一番凄いなこれ、と思ったのは「タイトル」です。
作品全編を見事に貫いている「共喰い」のタイトルは中身のおどろおどろしさを示すのにこれ以上ない秀逸さだと感じました。
文の細かな構成や登場人物それぞれが食い合っているんですね。
冒頭に出てくる淡水と海水が混じる川底にゆらゆらと揺れる藻を見ているような感覚に見舞われますし、この出だしあたり瞬時にして読み慣れた人は「いつもの流れか」とも思います。
「性と暴力と土着性」ときたら、だいたい古い読者は「中上健次」を思い出すでしょうし、私も途中までふっと頭に浮かんだのですが、まず消して頭を真っ白にして読みました。
文そのものは近代文学のような、ちょっとお堅いイメージを抱かせますが、構成が大変面白く短篇として文の構成の各ブロックが、それぞれのシーンや人物の心境とリンクしているところ、これは啖呵切っただけのことはあると感じました。
川端康成、司馬遼太郎、三島由紀夫等に影響を受けたと本人おっしゃっておりますが、なるほど、これは川端康成を彷彿とさせるかもしれない影がうっすら確かに見えます。
そのうえで選評で、ある方が「伝統的」と表現されたのかもしれません。
短篇としての仕掛け、道具、これもよく掛け合っていていやらしい感じで発酵しています。
最後、あれに気がつくあたり、救いなんじゃないでしょうかね。
まずああいったタイプの男性って、まったく気がつきませんし、気が回りませんからね。たとえ一瞬気がついても、すぐ忘れますよ。
少なくとも女性にとってデリケートな事情は「男性には関係ない」ことなのかもしれませんが、とある女性選評者のように、たとえ照れ隠しであっても「心配される筋合いはねえ!」と言うような母親を持たなくて心からよかったと思っている次第であります。
私だったら気持ちが悪くなって二度と顔見たくなくなりますから。

いわゆる「エログロ」の世界観にも似た雰囲気、これは「春画」の世界観でもあるなとも思えました。
鰻の顔をした大きな男が女を犯している。
その奥の部屋でも子鰻の男が初々しい女を犯している。
そういう構図の春画を彷彿とさせました。
しかしまあ、日本的かもしれませんが、陰鬱で濃淡だけの水墨画のような世界観は確かに表現が難しく、文章もやや隙があり、ところどころダブついている感があります。
おそらくそれは自分が尊敬しているものの影響をまだ色濃く受けていて、それが継ぎ接ぎ状態になっているからだと個人的には考えています。
本人も文章技術の未完成さ、達成したいものが先にあることを意識しているようで、そこがわからないと作家としてはもう終わったも同然ですが、これからおおいに変化していく予感を感じさせました。
私はみなさんが思っている以上に、この方は飛躍していくのではないかと思っています。

次は長編で才能を発揮しているのが読めるのを楽しみにしております。

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07/15

Fri

2011



社会派ミステリーとして、何度もリメイクされ映像化されている松本清張の代表作である。
初版が1960年だから、私の親が生まれた年と言ってもいいくらいの開きがあるだけに古さが浮かぶだろうが、そうでもない。
すらすらと読みやすい文章から、携帯電話もインターネットもなかった時代の忍耐力がうかがえる。
自分としては今西刑事が俳句を読むのだけれど、下手でもつづっていく俳句の登場がもう少しあると当時の風景がありありと浮かんだのではないかと思う。
これを読んでいくつか思ったことがある。
当時としては当たり前の風景が今となっては貴重な資料となりえる、ということである。
だからこそ、方言や今となっては見られなくなった病気のことなど、しっかりと記述しておくことで、その当時の風土や風景がいかなるものだったのかが伺えるのだ。
このことは年代が経ってみないとわからないことではある。
いくつか、ちょっと強引なところもあるが当時のトリックとしては斬新極まりない。
とある機械についても、ヨーロッパでフーリガン対策か何かで用いていたが結構大型、車の上につけていて50mくらい先の人にあてていたから大きいのだろうが、やはり結構な威力を出すには大きな装置が必要になっていた。
昔はどうだったのだろうね。
ただ、松本清張の短編などを読むにあたり、主人公の推理や勘が超人的に冴えている、もしくは執拗に考え抜くところは、作者本人の勘の鋭さ、疑問の持ち方がありありと反映されている。
後半になって、神が降りてきたように事件を述べていく。
ここら辺の文学性の欠如は解説でもちゃんと書いてある。
社会派ミステリーと呼ばれるようになったのも、いわゆる差別となった病気のことや、今の日本でもそうだけれど出世に傷がつくことを恐れる日本人の出世意識が強く出てきているからだ。
経歴に傷がつくのを日本人は恐れているし、経歴に傷がついている権力者を日本人はあまり認めたがらない風潮は強くある。
だいたい大人になると他人の優しさを多少冷めて受け止めてしまう感覚になっていくところ、とても寂しいことではある。
特に過去に対して深い傷があったりすると、人間を根本的に信用していないし、信じられないし、だいたい信用したら裏切られるという、なんとも蟻地獄のような目にあうのは、別に小説だけの話ではないのだ。

ところで方言が最初のトリックになっているところ、方言について考えさせられる。
これから方言ってどうなっていくのだろう、と。
多少は残っているが、この小説が書かれた状況からはだいぶ薄まってきていて、聞き取れないような方言を話す人は若い人ではいなくなってきている。
「私でもおじいちゃんおばあちゃん何言っているかわからない」というのだから、方言もまた資料上の記録にしか残っていかないのではないか、という時代の流れを感じながら小説を読んでいた。
前半戦汗水垂らして地道に動いていく今西刑事や周辺人物の人間味が、後半になって薄まっていき、前半の生き生きとした人間模様のあり方が多少薄味になっているところ、書き方の難しさを教訓として突きつけられる作品でもある。
また長編になればなるほど作者本人が仕掛けたトリックに振り回され、大きな欠陥を生むことになることなど、まるで犯罪者が整合性を取ろうとして逆に不自然になってしまうという創作ならではの難しさもこの本には存在している。

芸術家や批評家が出てくるけれど、これらの存在は内省することで客観性を保っていないと本当に独善的な世界を積み上げて、そこに固執し続けなければならないという事態を招く。
男の人は、本当に力の上下関係に弱い悲しい生き物なのかもしれない。

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03/27

Sun

2011

二十一世紀に生きる君たちへ



全文(官邸HPより)

司馬遼太郎が後世の人へ託した強い願いが込められている。
小学校の教科書にも掲載された名文章だけれど最初に読んだ時、店先で嗚咽しそうなほど込み上げてくるものがあり、本当に涙を抑えるのが大変だった。
それだけ元気をくれるし感動するし、何よりも優しく語りかけてくる。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」

いつしか自分への傲慢が他人を見下すことになっていないだろうか。
私たちは自分の中に思い上がったものを持っていやしないだろうか。

自己を確立し「たのもしさ」を備えた人間になるということはどういうことなのか。
「思いやり」「優しさ」「いたわり」とはどういうことなのか。

懸命に考え抜いて、自己満足で終わってはいけないのだと自分で軌道修正していく。

いくら外だけこぎれいにしていても、内側が汚ければ、化けの皮ははがれてしまうものだ。

文末にはこう書かれている。

「私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。」

人間が最も持ちえる美しいものとは何だろう。

中には「洪庵のたいまつ」という話もある。
その冒頭の一文だ。

「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。」

自分に厳しく節制し、他人に優しくあり、よく助ける。
いやいや、それだけでは到底足りないだろう。

人は一生を通して自分なりの「たのもしさ」を作っていかなければいけないのだと改めて感じた。
きっと人々の「たのもしさ」の先に「よい日本」を司馬遼太郎は見ていたに違いないのだ。

「たのもしい人々」が作る「たのもしい日本」になることが、司馬遼太郎の願いを叶えることでもあると私は思っている。

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03/06

Sun

2011



第144回芥川賞受賞作品。
「苦役列車」を読んだら「あ、そういえば」と気になって、どうしようかなと思ったけど結局読むことに。
最初から先走って書くと、こんな様子が妄想できた。

「ねえ、今回『苦役列車』推したいんだけど、ちょっと生々しすぎる。この男子寮のむせ返るような酸っぱい男臭はなんとかできんものか」
「じゃあ、今回は2人にして、女性はどうでしょう。生々しいのを緩和するために、さっぱりしてて後味が口の中で溶けていくようなものがいいよね」
「あ、いい作品がありますよ。これにしましょうか。経歴とも申し分ないですよ」

なあんて、流れなんじゃないの?と勘繰りたくなる。
確かに「苦役列車」の中和剤としては充分だろう。
でも手ごたえを感じない。
というのはもちろん「生々しさ」や「リアリティ」ではない。

最初から順を追って話すと、まず「きことわ」って何?と疑問を持つのは当然だろう。
それで最初開いてわかる。
「ああ、主人公の名前を合体させたものね」と。
それで何で名前を一緒にしたのかという疑問もうっすらだがわかる。

正直に書くと読み終わってみて、私はこれが「少女が見る大人の夢」なのか「大人が見る少女の夢」なのか、区別がつかないところがあった。
というのは当然主人公の年齢は子持ちで中年に差し掛かるところであるとわかるのだが、そこには子持ちの主婦や女性たちが持っている生活における生々しさが一切ない。
それにこの作品だけかと思って他のも見たら同じだったので作者の意図したところだろうが、優しい漢字をあえて開いて表現している。
つまり「やさしいかんじをあえてひらいて表現」しているのだ。
ひらがなにしている。
テレビで聞いたときは「詩情」という言葉が出てきたけれど、この漢字の開き方における文章表現が「詩情」なのだろうか。

話が前後したが主人公描写に戻す。
ひとつだけ非常に感心したことがある。
それは「物への視点」だ。
男性はここまで事細かに物へ視点がいかない。
だいたい男性の視点になると「興味のあるもの」に隔たったりするが、女性視点は生活において存在する様々な物へ視点が移り、認識していく。
しかしとても残念なのは、まるでスーパーや百貨店に陳列される時に使われる「よくできた写真」のように綺麗過ぎて生活感がない。
たとえば野菜ひとつでも葉っぱがしなびていたり、綺麗そうに見えるトマトの一部分が傷んで食べられないほど味が変わっていたり、鍋についた小さな汚れ、洗い残し、作ったご飯の食べ残しなど、当然生活していれば汚れたものはたくさん出てくる。
この物への綺麗過ぎる描写が当然主人公たちの人生にまで及ぶのだから余計に「ふわー」と浮いたような気持ちになるだろう。
この作者の視点は、まるであたたかい昼ごろ、木漏れ日の中でうたたねをして、きらきらと揺れながら夢を見るような印象なのだ。
これは実際の子持ちの30代40代の主婦に聞いてみたいのだが、恐らく私と同じように「子持ちで生活しているような傷跡がない」という感想を持つのではないだろうか。
幼少期の体験が記憶の中のノスタルジーだと百歩譲って許せたとしてもだ。
まるで少女が大人の夢を見ているような感覚しか持たないのが一般読者の感想であろうと思う。
しかし、この書き方、この雰囲気、「ポスト江國香織」になるのではないだろうか、という予感はする。

そして問題の「詩情」についてだが、ちょっと疑問点がある。
詩というのは、ぶれないし、そして明確な視点を持っている。
しかしこの作品にはまどろんでいるような心地よさが全体的に漂っていて、まどろみの薄れてゆく視点の中に正確なピントあわせが存在する、というレベルまでは達していない。
ある人がこう言っていた。
「詩というのは書き始めた頃には完成している。啓示のような皮膚感覚を文字にしているだけなのだ」と。
私はこの言葉に同意する。
そして詩情とは読む側にも皮膚感覚における強烈なインパクトがなければいけない。
また萩原朔太郎もこう書いている。
「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」

確かにこの作品は、まるで両者がひとつになりたがり、若かった頃の肌をなであい、そのきめ細かさを確かめあっているような、その退行は赤子のもちりとした、つやつやした肌の質感まで戻るのではないのか、という印象すら抱かせる。
しかし、しかしですよ、ここで一つの違和感が出てくる。
「主人公たちの年齢と環境」だ。
多くの読者もこのギャップに違和感を感じるのではないかと思っている。
この話が少女の話で一貫されていたら非常に完成度の高い作品になったかもしれない。
少女の無垢な純粋性の結晶を描ききった名作になったかもしれない。
しかし大人はもっとどろどろしたものと向き合っている。
読書する時にその経験を重ね合わせてしまう。
この話では「現実逃避」にもなりがたいのだ。

この話はこの漢詩がぴったり似合う。

春眠暁を覚えず、
処処啼鳥を聞く、
夜来風雨の声、
花落つること知りぬ多少ぞ。
~「春暁」 孟浩然~

とにかく視点はある。
踏み込み方が甘いだけの話であって、これからの成長に大いに期待するべきではないだろうか。
と、偉そうに書いたところで今回の感想おしまい。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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