「音の魔術師」
その日は午後から重苦しい雨が降り続いていた。
札幌にも夏が入り込み、大通公園ではビアガーデンが開かれているが、あいにくの大雨に客はほとんどいない。
「雨かー!やべえなー!」
客一人いないバー・ノワールでは今城が窓から顔を出しながらアスファルトに落ちる無数の波紋を見下ろしていた。
だいたい今城は一人になると、新しい曲をインターネットで探して店に流しながら、ネットサーフィンやメールの返信、人にはおおっぴらに言えない投資の情報をチェックしたりする。
今日も白いノート型のアップルコンピューターが大活躍している。このパソコンがないと今城は店で孤独死するに違いないが、そうならないのは音楽があるからだ。
ヒップホップを中心に流していく。数曲目が終わったところでエレベーターが三階に止まりカップルが降りてきた。
「いらっしゃいませ」
ようやく一組目の客かと、ため息の出る気分だったがそう思ってもいられない。見たことのない新規の客だった。
両方ともスーツ姿で、女性のほうが若干落ち着きがあり、男性のほうは女性に気を使うようにして座った。装いから単純に想像するに、会社帰りの上司・部下を思わせた。
今城が注文を聞くと、女性はクーニャンを頼み、男性は「僕もそれで」と合わせた。
酒を出すと女性は「おつかれさま」と言って、酒を飲み、男性は「はい、おつかれさまです」と女性が酒を飲むのを見てから、グラスをぐっと傾けた。
酒を飲み始めると二人で話し出したので、今城はパソコンの前に座りながらネットサーフィンをすることにした。それでも耳はしっかりと客の話を捉えている抜け目なさで、今城の背中には鋭い目が光っている。
店内にはアップテンポのヒップホップが流れている。
女性は男性に対して、仕事の注意点や改善点を丁寧な口調で教えている。
「もっとあなたの仕事はよくなるはずだから」
その言葉に対して、男性は女性の仕事ぶりに対して褒めちぎっている。
「憧れですよ。もっと先輩みたいに仕事できるようになりたいです」
「あなたもすぐ慣れるよ」
互いに二杯目くらいまでは、仕事周辺の話が続いた。仕事周辺の話から徐々に同僚や知っている人間の男女の事情に話題が摩り替わってきた。男性は奥歯に物が挟まったように、何かを言いたそうにしていたのがわかった。先ほどからしきりと話題を男女のことに変えたがっていたからだ。
今城は三杯目のカクテルを互いに出してから、あいかわらずそっけなくパソコンに向かっていた。
「ところで、先輩って、付き合っている人とかいるんですか?」
今城は男性の言葉を聞き逃さなかった。カップルはパソコンに向かう今城の目が鋭く輝いたことを知らない。すぐに選曲をヒップホップから落ち着いたソウルにリストアップし直す。
音楽一つで店内の雰囲気がガラリと変わる。一気に二人がムーディーな様子になるのを今城はパソコンの横にある小さな鏡で確認していた。
「付き合っている人か…今はいないかな…」
しっとりとした口調で女性が答えると、「僕も、なんですよね…」と残りの杯を一気に空ける。
男がカクテルを頼む。少しずつピッチが上がっているようだった。
二人の間に流れる奇妙な沈黙も、今城セレクトのソウルが流れ込んで埋めていく。音にうるさい今城セレクトはいつも完璧に店を作っていく。
「あの、先輩ってどんな男の人が好みなんですか?」
「私は…頼りがいのある人かな…」
男性にとっては少しきつい言葉だったかもしれない。女性の言葉を受けて少し沈黙していたが、女性が男性をすっと見て続けた。
「ちゃんと甘えてもいいくらいのね」
女性の言葉を受けて、今城は内心後一押しだと思っていた。今城リストが脳内で曲を絞り込む。パソコンに落とされた指が滑りカーソールを曲の上に移動させる。
ここはこのままソウルで甘く仕上げるか、意表をついてジャンルを変えるという手もある。このままソウルで流れを変えずに攻めたほうが男性の気持ちも乗るだろうと、とっておきのソウルを絞り込んでいた。
夜のほろ酔い気分の甘い二人を彩る飛び切りの曲だ。選曲した後、今城は心の中で握りこぶしをしめて勝ち誇っていた。完璧だ。あとはこの雰囲気に乗せて男が決心すればいいだけだ。準備万端だぞ。
「あの…」
男性が言葉を切り出す。背中を見せていたが、今城の意識はもう二人の会話に集中している。鏡に映る二人の姿が気になってしょうがない。
女性が男性に振り向く。
「先輩、俺、前から先輩のこと好きだったんです」
男性の告白を聞き今城は思った。よし!決まった!いい仕事をした!今城の心のヴォルテージは静かにマックスを超えていた。
女性は静かに一呼吸息を吐き出す。
「あなたはまだ若いんだし、私よりももっといい人が見つかるよ。がんばって」
事実上の告白失敗だった。今や引き立て役に流れる店内の甘いソウルも青く切ない。それから二人はずっと黙ってしまった。カクテルももう頼まないだろうと今城は思った。
外の雨は降り止まずに街を濡らしている。告白に失敗した男性の心も今は涙に濡れているだろう。
「明日も仕事だし、もう帰ろうか」
女性が切り出すと「そうですね」と切なげに男性は答えた。
「ありがとうございました」
今城が二人をエレベーターまで見送る。その後、雨に濡れたガラス戸の外を見下ろすと、女性はタクシーに乗って帰っていった。男性はしばらくそこに突っ立っていたが、傘も差さずに街を歩き出した。
酔わなければ言えないこともある。酔わずに言えたらと思うこともたくさんある。店内を流れる今城が選んだ曲は、今日も酒の隙間を縫って店内を魔法のように彩っている。
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