ブックオフなどの大型店舗でもない限り、個人経営の古本屋は買取の本を選ぶ。
「うちじゃ必要ないんですいません」
と断られた本の中には、今売れている大衆作家の小説や国語に出てくる文学もあったりする。
自分がやろうとしている職業というのは、やっぱりまともな仕事じゃないのかもしれないと感じてしまった。
自分が書いた本だって、そう言われてつき返されるかもしれない。
万人に受け入れられる人間なんていないのだから、当然本というのは必要な一部の人だけに受け入れられて、あとはいらないに決まっている。
だから、必ずしも落胆する必要なんてないに決まっているのだけれど、やはり色々心の中に曇ったものが出てくる。
ある程度自分の中で柱はあるものの、改めて「作家とは何か」ということを考えてしまう。
「この世の中に確かに存在している、しかしまだあいまいな、形にすらなっていないものを、形にするのが仕事」
と、安部公房の言葉を借りて定義付けてみる。
書きたいものが山ほどある。
一生かかっても足りないくらいある。
それを書くには取材が必要で、取材にはお金が必要で、お金を手に入れるには作家としての地位がなければいけない。
成果がすぐに出ないからといってやめられないし、諦めきれない。
北海道のことだって書いてないことはたくさんあるのに。
今や携帯小説なの、エンターテイメント小説なの、この作品がどう将来に役に立ってくるのだろうというものばかりで、自分は小説なのに人間が描かれてないのが一番読んでいて無駄だなと思う。
自分はもっと読み手に考えて欲しいなとか、違った風を吹き込みたいなとか、こういう問題点があるのではないか、などなど、ぶち当たっていきたいけれど、少しでも考えさせるのはなかなか受け入れられない。
…その前に自分の腕がまだまだなのかもしれないけれど。
読み手に媚びるような小説は書きたくはない。
それだけで読者を馬鹿にしていると思うし、小説家はサービス業じゃない。
…のはずなのだが、現代ではしっかりエンターテイメントがなければいけないし、小説家も立派なサービス業と成り果てている。
むしろ大手の出版社も、そういう作品を望んでいるしね。
挙句の果てには中高生に妊娠、レイプ、暴力、薬、堕胎、これらをエンターテイメントにして金を取る始末。
確かに彼らが置かれている事情や環境は今の大人が思っているよりも、もっと影がある。
興味しだいでそれらが「日常」になる可能性が充分にある環境があるのだ。
でもその携帯小説も一過性。
「セカチュー」なるものがあったけれど、一年たてばもう過去の産物。
流れが早すぎる。
当然古本屋もその手の小説は扱わないし、いっせいに書店で姿を見かけなくなる。
古本屋にいつも置いてもらえる本ってどんな本なのだろう。
価値のある本を残したい。
価値が残っていく作品を残したい。
もやもやしてたまらない。
とりあえず、本があまっているのでブックオフに電話して引き取ってもらおう。
残しておきたい本は、限られている。
古本屋でもいい本。
ちゃんと買って残しておきたい本。
後者の本を残せる作家でありたい。
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