「想い出の色」
「いらっしゃいませ!」
今城とは違ったシャキリとした元気のよい声がノワールの店内に響く。
常連の男性客は「新しく入った子か」と声をかけると「桜庭って言うんです。ラバって呼んでください。よろしくお願いします」と返す。
長髪をピタリと分けて後ろで止め、あごひげを生やしているその風貌は、いつも実年齢よりも上に見られるが、若々しい目はいつも輝いているようだ。
「お兄さんいくつなの?」
「当ててみてください」
初めて相手するお客でもしり込みせずに明るく話し込める好印象の青年は、入店間もないにも関らずハキハキと動く。
「使える男ですよ」
今城はとある客に耳打ちしていた。
まだシェイカーは満足に振れないにしろ、すぐに慣れるだろう。
店内が深夜帯になると、すっとにぎわいを潜ませる。
今日はこれから暇になるかな、と今城が思い始めた頃、エレベーターから足をもつれさせながら女性客が入ってきた。
黒のドレスにバッグを提げただけの服装で、だいぶ酔っ払っているようだった。
「ああ、こういうみせなんだねー、あー、ねー、ウィスキーある?ヘネシーちょうだーい」
頼みながらもカウンターに倒れこむようにして突っ伏す。
ヘネシーはブランデーだ。出していいのだろうかと、今城は確認する。
「ヘネシーでいいですか?」
「うーん。はやくー」
ここまで深酔いしている客が入ってくるのも珍しい。桜庭はカウンターに倒れこんでいる女性客にそっと水を置いておいた。
「あっ」と、女性客が突っ伏したまま言う。
「あれ、ゼリービーンズでしょ。あれ食べたいな」
ガラス瓶の中に入っているカラフルな豆状のゼリーを指差した。いつもは店内に置いていないが、お客が「もらったけど、食べないから」ということで持ってきたものを瓶に入れていた。
「犬飼ってたんだー。あそこの看板のやつ。黒ラブラドールでしょ」
「そうです。前の相方が飼ってた犬なんですよね」
今城が答えると「ふーん」と見向きもせずに言った。このままいったら吐くか寝るかのどちらかではないのかと思った。
桜庭は心配そうに女性客を見守っている。
今城がゼリービーンズをカクテルグラスに入れて出すと、女性客は黄色だけを選んで二三個口へと運んだ。
出されたヘネシーは手付かずで、水をちびりちびり飲んでいる。水を一杯飲みきったところで水のおかわりを要求した。
桜庭がよく冷えた水をもう一度出すと、女性客がふらりふらりとゆれながら桜庭をじっと見てくる。
何かあるのだろうか、話しかけなければいけないだろうなと思った矢先、「どっかで…」と女性が口走った。
「はい?」
予期しなかった言葉に、少々桜庭は戸惑った。女性はより見つめてくる。桜庭はニコリとするのが精一杯だ。
「あ、わかった!桜庭くんだ!」
言われた桜庭は「え?」と驚く。タバコに火をつけようとしていた今城は二人を交互に見る。
「あー、わかんないよね。クラス三つ離れてたし。うわー、老けたよねーって、ひげと髪型のせいか」
「もしかして」と桜庭が通っていた中学の名前を告げると「そうだよ。懐かしいね。こんなところで会うとは思わなかった」と言ったが、桜庭はまったく誰かわからなかった。
「私のこと誰だかわからないよね。一度も話したことないしさー。会いたかったけど、卒業しちゃったら会えないもんねー。十年越しの恋だよー。あ、そんなに経ってないか。キャハハ、言っちゃった。片思いだしさー」
こういうことってあるんだなと桜庭は思っていた。まくしたてるようにあの頃の様子をしゃべる目の前の女性に桜庭は驚くばかりだった。
「う、気持ち悪い。ちょっと桜庭くんついてきて」
「あ、はい」と答える桜庭を今城はニヤニヤしながら見送る。
奥のトイレにつくなり、洗面台に思いっきり女性は吐き出した。
洗面台にやっちゃったよ、と思いながらも女性の背中をさする。
「今日は最低最悪の日だと思ってたけど、でも悪いことあるといいこともあるんだね。桜庭くんに会えたから。…ごめんね」
何に対する謝罪なのだろう。吐いたことだろうか、酔って迷惑をかけたことだろうか、考えれば色々ある。しかし、桜庭は細かいことは気にしない。
「ちゃんと帰れる?大丈夫?今日はこれ以上飲まないで帰ったほうがいいよ」
桜庭の精一杯の優しさだった。それ以上はどうしていいかもわからない。初めて出会った子に過去の恋の告白をされても戸惑うだけだ。
トイレから肩を抱きながら出る。女性は桜庭にもたれるようにしていた。
「どうなるかなんてわからなかったよね。あの頃。こんな仕事しているなんて思わなかったしさ。これからどうなっちゃうんだろ」
桜庭は黙っていた。しゃべりたかったが、酔っ払っているとはいえ、変な言葉が相手を傷つけるのが怖かった。
「楽しかったよ。一途な気持ちで純粋に悩んでた。そんなの、もう無理だもんね」
結局頼んだヘネシーを一口飲んだだけで勘定を払った。
「タクシー下で呼んできてあげな」
今城も気を利かせて、桜庭に言う。
桜庭はもう満足に立っていることもできない女性客の肩を抱きながら下まで連れ添う。
「ちょっと、待っててね」
桜庭は階段に女性を座らせてタクシーを呼びに行く。
一人残された女性は誰にいうともなく「帰りたい…」とこぼした。
帰る場所に、帰りたい。
それは安心できる家のような。女性は中学の頃の自分を思い出しながら口走ったのだった。
桜庭が呼んできたタクシーに押し込むようにして女性を乗せようとする。その時「ありがとう」と女性は耳元で小さく言葉をもらした。
桜庭は遠くなっていくタクシーの赤いテールライトを最後まで見守り、店へと戻った。
「なになにー!だれよー?片思い?いやーいいねー」
店に戻ると今城が満面の笑みで話しかけてくる。この手の話は一度探りを入れないと気がすまない男だ。
「いや、本当に知らないんですよ。一度も話したことないし」
とは言ったが、思い出せないだけかもしれないと桜庭は思っていた。
カウンターを見ると、女性が残していったゼリービーンズがあった。
「これ、一個食べていいですか?」
と聞いて、桜庭は赤いゼリービーンズを口に入れて噛んだ。
素朴な甘さが口の中に広がる。
懐かしい味、とでも言うのだろうか。懐かしみのある味。桜庭は何度も噛み締めながら飲み込んだ。
カウンターの瓶から想い出の粒のような彩りでゼリービーンズが桜庭を見つめていた。あの頃は、いつも遠くて近い。
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