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あさかぜさんは見た

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06/09

Thu

2011

日本刀ができるまで

「作品を作るということは魂を打つということ」























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06/09

Thu

2011

貧しい発想 ~料理と食について~

先日デミグラスソースの缶詰が3分の1ほどあまっていたので鶏がらスープの粉末一杯分と混ぜて冷蔵庫のタッパーに入っていた3膳分ぐらいのカラカラのご飯を入れて洋風おかゆみたいなものを作ってみた。
たまねぎを入れたらさぞおいしかったろうが、野菜はなし。
中に卵を入れてチーズとパセリをトッピング。
別に悪い味ではなかった。
卵の中にご飯を入れてもよかったけれど、なにせ思いつきで初めて作ってみたので味に自信が持てずやめた。

デミグラスソースは缶詰を使ったけれど、最初から作ったらどうなるのだろうと調べてみたら、最初から作ったら10時間ほどかかるらしい。
当然化学調味料系のものは一切なし。
すべて最初から作る本格的なものでした。

そこで「これなら缶詰買ったほうが安いし、楽だよね」と思った時気がついた。
鶏がらスープだって最初からきちんととろうとすると数時間かかる。
どうして料理のためにこれだけの時間かける必要があるのだろうとか、毎日やると面倒くさいとか、他にもやることがあるしとか、色々な面で「料理を作って生きていくということはどういうことか」を忘れがちである。
「腹がふくれればだいたいは一緒」ではないのだ。

「時間が」「労力が」と浮かんでしまうのは、きっと時間に追われていて、疲れていて、生活にも精神にも余裕がないからだろうと思ったのだ。
「金があるなら外食すればいいし」というのも個人の考え方としては少々貧しい。
たとえば前にこんにゃくの作り方を調べたけれど、実はとても労力がかかる。
本来はそのままでは食べられないものを食べられるようにするまでには時間も労力もかかるのだ。
昔から伝わっている料理の中にはこんにゃくのようにアクとりをしなければいけないものがたくさんある。
食べるまでに手間がかかるのだ。
本格的な料理でも日本食には手間隙かけて仕上げていく料理が多い。
出汁ひとつとるのにも、微妙な風味や味わいを大事にする。
それを出すには非常に時間がかかる。
精進料理だってわざわざゴマをすり鉢で潰してから食べる。

そもそも、なぜそれほど手のこんだ料理を編み出したのだろうか。
今の現代人の生活はスピードが要求される。
いかに素早く、いかに正確に、効率的にレベルの高いことをやるかを競っている。

「デミグラスソースは自分で作るよりも缶詰を買ったほうが時間も労力もお金もかからない」
という発想は誰でもする。
そこをあえて「時間や労力なんて食事から得られる豊かさに比べれば惜しいとも思わない」と考える人は少ない。
多くの人間は「過程の状態」ではなく「結果の状態」を重視しがちだからだ。
つまり「結果から手段を逆算して考える」ということだ。

そもそも仕事をすれば当然「拘束される時間」が発生する。
その間は「お金」に還元されるわけだ。
ここまでは当たり前だと思う。

通常「淡いもの」を巧みに使い分けるには相当の感性が必要になる。
料理だっていいものは味わいが奥深くなる。
つまり「淡さ」が含まれている。
そうでなくとも化学調味料に頼らない料理をしていれば少々の味付けで変化してくることはわかってくる。
感性が鈍ってくると、非常に大雑把になっても気にならなくなる。
日本人が文化を作り出す上で労力を惜しまない時間への感性も非常にゆったりしているのは自然が多かったせいなのではないかと思うのだが、時間と労力をお金というものに換算してしまう考え方は非常にせせこましい気持ちになってくる。
それも意識されず蝕まれていくのだから厄介だ。

いつの間にか時間を生きようとしているのではなく、時間に追われ管理されながら生きていっている。
その中でどうしても無意識に労力の代価を結果から逆算している。
生きるとは学びだ。
学びがある限りは向上心が出てくる。
しかし感性が足りなければ、向上心なんて沸いてこないだろうし、違いも気にならない。
極端な状態だと心が死んで五感が麻痺する。
過程が気にならなくなり、微妙な違いがわからなくなる。
愛情がなくなれば恋人の変化にも気がつかなくなることと一緒だ。

せせこましくなると時間に余裕をもって様々な向上心をもって学んでいこうとする気持ちが薄れるし、気づきも少なくなる。
食べることにも興味がなくなりカップラーメンとかレトルトで充分だし、とどこまでも怠惰になってくる。
「食」とは「体を作ること」である。
だから生きられる。
体を作っていくということは、学びも同然だ。
脳が日々新しく経験を経て変化していくのと同じように食べ物を食べて体を変化させていく。
時間があるし年も老いるから変化があるのは当たり前。
ゆえに「食」も大変重要な学びの要素だ。
そして料理を経験することによって外食の味だって変わってくる。
「この味を出すのにどれだけ苦労したか」と味わい深くなってきたりするものだ。

残念ながら、この「学び」はお金を払って易々と手に入れられるものではない。
感性のなせることだと思っている。
それを「労力が」とか「お金が」とか「時間が」と考えてしまうのは、既に貧しい発想なのではないかと気がついたのだ。

「食」は体と同時に「心を作るもの」でもある。
これを忘れてはいけない。
簡単お手軽料理も時間のない人には大事かもしれないが、ひとつの料理に魂を込めてみるのも、貧しい感性にならないためにも必要なことだ。
なぜなら、貧しい発想は豊かさを生まないから。
そして豊かさがないということは、幅広い創造性や、創造性から生まれる幅広い選択肢を生み出さないということだから。

さすがに10時間ほどもかかるデミグラスソースは時間を確保しないときついけれど、「食べるとは何か」についてよく考えさせられました。
時間に対して豊かさを持とうとする感性は常に磨いていなければさびれてしまうのだ。

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06/08

Wed

2011

気に入らないものに対してモノを言う。
まるで自分の考えていることが最優先されるべきだと錯覚しているかのように。
いや、そうじゃないんだろう。
もっと感情としては軽く、かつ重いのかもしれない。
つまり「相手のことを私は考えているのに軽んじられるはずがない」という「自分は尊重しても同じように相手を尊重しない」という軽さ。
小さなものは「こう思っているから素直に言う」というモノから、まるで「そうしなければならない」という「常識」という言葉を武器にした義務感まで。

「最近の若い者は~」
という言葉がある。
この「若者の姿を嘆く中年・老人」の姿は紀元前からあったそうだ。
これはある意味古今東西人間が繰り返してきた習性と言っていいのかもしれない。

ストレスは本当に様々なものを破壊する。
外に出さなければ自分を破壊していくし、誰かにぶつければ他人を破壊していく。
それだけ厄介なものだ。
私も耐え切れず内的破壊や外的破壊を繰り返してきた。
精神的に脆弱な人間であると痛感している。

人間は当然の事ながら自分が親しんできた、自分が心地よいと思ったものを基準にして、そして場合によっては、自己基準への同意の多数をもって他者を時として断罪する。
その時自分が無視されればより義務感を高め、自己の正当性が崩れないように相手が手をついて謝るまでやり込めるなど、悪質とも言っていい行為を繰り返す。
なぜだろう。

少なくとも私自身に限っては、異種のものが受け入れられない時、自分の考え方にひどく画一的なものがあったり、平常心のようで苛立っていたりする。

この世界には自分が認められないようなものがたくさん存在する。
私はそれをわざわざ穴をほじくってまで見に行って正そうとするのは精神的なコストが高すぎてやらない。
それをやる精神的な労力を考えると得るものが少ないからだ。
気に入らないものがあって当たり前なのだ。
それが酷く人を傷つけるものであれば声を上げざるをえないだろう。
しかし「不愉快なもの」はたくさんある。
当然と言っていいほど。
この日本の中であったとしてもだ。
しかしわざわざ正そうとする人は、その行為が労力を払ってでもメリットが出ると思っているからこそやるのだろうと考える。

彼らにとっての「メリット」とは何だろう。
「気晴らし」だろうか。
少なくとも対話もせずに双方にメリットが出るはずがない。
メリットが出るのは必ず「やり込めようとする側」だ。

前にスーパーのクレームの電話でおかしなものがあった。
「あんたたちが悪いんだから、そのことを俺は言いふらしていいんだよな。だって悪いのはあんたらだから」
逆らうわけにはいかないので、口ごもってしまったが、明らかにおかしな考えかただ。
悪いのはこちらだが、「言う」という「行為の責任」はこちら側にはない。
あくまでその人の「品性」の問題だ。

小さな子供たちでも、おそらく親の影響なのだろう。
「友達って~すべきであって、~しないのは友達じゃない」と考える子がいて驚いた。
つまり、この考え方は「契約」だ。
「当事者は相手側と関係するに当たり、次のように定められたことを守らなければいけないことを了承することとする」
という考え方だ。

人間関係は契約関係で維持されるものではない。
人間が表現するものも人間が存在することも契約によって維持されるものではない。
しかし現代人はどうもそう考えてはいないらしい。
いつの間にか「契約関係」に近い考え方をするようになっている。
だからこそ「契約を破ったあんたが悪いんだ。私じゃないでしょ」という勢いで怒りをたたえて来るのだ。
だからこそ「不愉快指数」も高く、烈火のごとくストレスを燃やし、相手を傷つけていく。

私は大きな問題だと思っているのは、その人間が破壊したものが当初の思っていたものとは大きくかけ離れ、まったく罪のないところまで破壊してしまっているのではないかという点だ。
人間自分が怒っている時は、だいたい自分が正しいと思っているので、うっかり他のものまで壊しても気がつかない。
精神的なものならなおさらだ。

過度なストレスは様々なものを破壊する。
本当に大事なものを破壊してしまうことがある。
そして一度精神が破壊されれば再生まで長い時間と労力を必要とする。
私はそれで10年以上も時間を費やした。

まず気に入らないものが出てきた時、相手(もしくは相手側の領域に携わる人たち)が納得するような客観的な証拠を提示できるかよく考えてほしい。
便利だからこそ、利便性の高い現代社会だからこそ、あらゆるところへ容易に悪意をぶつけられる。
人は負い目を多く背負って生きられるほど強くはない。
理不尽とそうでないものの境目は主観と客観にあるが、それを冷静に考えて発言する人間が情報化がなされるごとに抑圧されていくのは、とても嘆かわしいことであると考えている。
そしてもうひとつ言えることは、あらゆる権力は他者を抑圧するためにあるのではなく、常に生かし育てるための装置であることを考えない人がいるということにも、社会の未成熟さを感じざるを得ないわけだ。

人間のエゴが際限なく肥大すれば、ストレスもまた際限なく肥大するという現実を、自ら戒める人間は少ない。

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06/05

Sun

2011

「ターミネーター2」を見たのはいつだろうと調べてみたら1991年だった。
その時ジョン・コナー役で出ていたエドワード・ファーロングを最後に見たのは「アメリカンヒストリーX」だった。
これが1998年。
この時はいい存在感だったんだけどなあ。
それでwiki見たらびっくりした。
どうしたの?あの時の美少年がやばいくらい、いかにもって風貌に。
スラムとかによくいそうな雰囲気を醸し出している。
よく読んだら、なんとヤク中とな。
何があったの?
ハリウッドでは成功したものの、その「成功」のせいで破滅に至る俳優さんは結構多い。
ぱっと浮かんだのは「ホーム・アローン1,2」で出ていた主役の子供のマコーレ・カルキンも稼いだ莫大な金が原因で両親が争い酒と薬に走っている。

しかしヤク中から悟りを開いたようにきっぱりと薬を絶ったロバート・ダウニー・Jr(「アイアンマン」「シャーロック・ホームズ」)はなぜ止められたのだろう。
「2003年に「きっぱりと止める時がきた」と直感。所持していた麻薬を全て海に投げ捨て、それ以後ドラッグには手を出していないとのことである。」(wikiより)
何が起こったのだ。

実は華やかそうに見える世界は、それほど幸福ではないのかもしれないなと思ったりもする。
というより、やはり常人よりも多感なものがあるからこそ人の心に迫れる演技ができるわけであって、多感だからこそ孤独や人の邪気を過敏に吸い込み、心をどうしようもできなくなるのではないのかなと思ったりする。
いやー、自分もアメリカに住んでたらマリファナぐらいはバンバンやってたかもしれないね。
日本でよかった。

私はストレスが溜まると暴飲暴食にはしって吐くまでやってしまい、次の日も胃酸が出るくらい吐いて体が動かなくなるくらいグラグラしている状態になってようやく平静を得るのだから、こういう薬に溺れる可能性はあったわけだ。
もう精神的に安定しているからやってないし、やりたくもないけれど。

幸せって何なんでしょうね。
多くの人はお金を持って、それを自由に使えて自由に行動できてってことを思い浮かべるけれど、本当の幸せは人とのあたたかみ、そのあたたかみをやりとりできる親友の存在なのかもしれないなと思ったりする。
つまりよい意味での理解者が一人でもいれば人間生きていけるような気がするのですよ。
特殊な事情を持っている人、心中複雑な人、華やかな舞台にいる人は通常の人からは、まず理解されづらいよね。
なぜなら皆色めがねで見るから。

人と人との間で「心の語り合い」ができることは本当に時間がかかるし稀ではあるけれど、不可能なわけじゃない。
日本は合成麻薬の問題があり、今は子供たちが危険にさらされている。
人々が心の豊かさを失い、人を責めるようになると子供たちは荒んでくる。
心も人も逃げ道がなくなると破滅的な方法を取り出す。
そうはならないように人と接したいものですな。

ちなみに「ターミネーター2」は今見ても面白いですよ。
「アメリカンヒストリーX」はエドワード・ノートンが豹変する人種差別を扱ったテーマ性の高い作品。
ちょっとこっちは強烈。



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06/03

Fri

2011

・システムを人間が運用できず振り回されているのなら、システムもそこに携わる人もいらない。作り替えて再度やり直せばいい。それができるのは徹底的に破壊してから。結局同じ人間がシステムに携わると発送の枠組みが同じだから元の木阿弥になる。

・人間「金」のことになると途端に臆病になったり尊大になったりする。
「金」を使っているのではなく「金」に振り回されている。浅ましい。

・人間実は一番信用できないのが「言葉」です。
一番信用できるのが行動から心理を炙り出すこと。

・論理にはまって役に立たない言葉を組み上げ「正義」を錯覚する人間がいる。
かわいそうだが救いようがない。放っておくのが一番労力を消費しなくてよい。

・実は文化は突然降って湧いて出てくるものではなく、流れがある。
その流れを無視して堂々とオリジナルを語れない。
残念なのは売れないからといって過去の名作が失われて断絶してしまうこと。

・文化を守るためには割に合わないような対価が必要になる。
採算度外視になるので次々とコストの面から捨てられる。
今は電子書籍という手段でデジタル上に保存するしか手はないが、いずれはオンデマンドでも自由に手に入るのが望ましい。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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