今までそういう言葉をバシバシ言う人たちに出会ったことがあまりなかっただけに、認識を改めなければならないと感じた。
今まで少なくとも私の知っている後輩ぐらい、つまり二年ぐらいの下の間の知り合いはそんな軽々しい言葉を他人に扱うことはあまりなかったが、もう1980年生まれからは、環境によってはしっかり身についていたのですね。
たとえば「キモイ」「ウザイ」「シネ」は暴力表現に他ならないけれど、彼らにとっては挨拶のごとくカジュアルな表現だ。
だから「何お前、ホントウザイし、死んで欲しい」なんて言っても、言った本人にとってはそれほど重い言葉ではない。
言語表現の重みがなくなってしまったのはどうしてだろうという疑問は浮かぶけれど、事実軽々しく放たれ、そして言った本人は言ったことすら覚えていないほどなのだから、会話の中に自然と暴力表現が入っていく環境で既に育っていたのだと思うしかない。
これは育ってくる環境によって言葉遣いも大きく変わってくるし、言葉遣いが変われば言葉一つ一つに対する重みもまったく違ってくる。
「ウケル」も自分とは違ったところで使われたりするので驚く。
全然笑えないところでも「ウケル」と言って笑っている。
感覚が違うのだろう。
こういう言語感覚の認識の違いは少なくとも1985年生まれあたりからだろうと思っていただけに、少々ショックだ。
良いか悪いかと言われれば、当然このような、あまり品が良くなく、無闇に人を傷つけるような表現は重く受け止めて発して欲しいとは思うが、それは個人的な考えであって彼らにとってはまさに「ウザイ」考えでしか過ぎない。
というか自分もブログでやっていたのだから、うーむ、どこで認識が変わったのだろうと振り返ってみると、やっぱり自分という立場を少し見直して相手から見た自分を意識してからだろうか。
少しずつ気がつくようになった。
なぜそれを意識するようになったかと言うと、自分は文章を書いているし、こうして日記に誰でも見れるような状態で書いているから、自然とこれを見た人がどういうことを考えるかを自然と予測して書いていくようになったのですね。
心に余裕ができてからだと思う。
でも通常生活していれば、そんなことは微塵も考えないだろうし、周囲の環境が自分と同じもので取り囲まれているのだから内省する必要性にも迫られない。
つまりはそのままで充分通じる世界がすぐそこにあって、それこそ「日常」なのだ。
これから小説家として、彼らの言語感覚を理解しないと、現実を捉えることなど到底不可能だし、否定ばかりしていてもますます現実から乖離するだけだ。
それだけにもう数年違えば「ニュージェネレーション」なのだと考えを改めて、そしてそのことを徹底して頭に叩き込まなければ「自分はこうして気がついてきたから、こいつもこの年ぐらいならこうなるだろう」だなんて希望的観測で捉えたり、逆に希望的観測との差異に驚いて衝撃を受けたり見下したりすることになるだろう。
少々面食らったけれど、しょうがないことでもある。
言って聞かせたところで直るようなものではないようにも思う。
なぜなら、彼らは同じ世代で固まり、同じ意見の者と固まり、そして「何故変えなければいけないのか」という疑問を当然持ち、「変えたほうが逆に不自然じゃん」という結論に達するであろうからだ。
これが古代から脈々と受け継がれてきた「最近の若い者は~」というやつなのだ。
理想を言えばきりはないし、諦めで言うわけでもない。
尊敬すべき大人があまりいなくなったせいなのではないかと推測はあとを絶たない。
しょうがないことなのだと、これもひとつの時代の流れなのかもと、感じた現実に対して素直に受け止めるしかないように思いながらも、「ああきっと、自分が感じている違和感は1960年生まれの人たちは同じように自分の世代に感じているのだろうな」と思うわけであり、ある意味子供はしっかり育てないといくらでも将来が危うくなることも同時に感じたわけであります。
その危うさとは暴力表現がカジュアルになったり、逆にまったくそうではないものが暴力表現となったり、言葉を勝手に押し付けられる状態になるからだ。
自分たちの愛したものは変質していく。
しかし軸がなくなってしまっては、いずれは帰るところもなくなってしまうのではないかなと考えたりする。
今を生きることは大事だ。
命を燃焼させて今を作っていく。
しかし、その今の後に残っていく過去というものを、彼らは考えることがあるのだろうか、それとも今だけなのか、と小説家として解決するべき問題は山積している。
最近は自分より若い人たちに教えてもらうことがたくさんあって、いささか自分の器の小ささをとことん感じているところである。
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