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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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02/12

Sat

2011

2月11日19時半からのNHK「無縁社会」感想

結論から先に言うと、構成としてあれは強引と感じた。

「働く」ということを通じて、人間は社会とのつながりを感じ、そして必要とされていることで自分自身への充実感を得る。
それはいい。

一番危ないのは、途中で若者の「無縁」を例に「匿名空間」を持ち出してきたことだ。
最後の提示として「働くことを失うこと」や「働くことで得るもの」の対比から、「働かないことで無縁が加速されている一面もあるのではないのか」と印象付け、その上で「働くこと以外にも繋がりは作れるのだ」と示唆している。

しかし構成として強引だと感じたのは、「無縁」というのを捉える上で、匿名空間に存在している無数の人間たちの中には「働いていても」「ネットで繋がっていても」「無縁を感じている」という人たちが多数存在する。
注意しなければならないのは若者の「無縁」という心理と、中高年が感じる「無縁」の心理を一緒にしてはいけない。
私が接してきた匿名空間の人たちの中にはつかず離れず人同士が空間を越えて繋がりながらも孤独を感じる人がたくさんいた。
この「働いているのに」「人と繋がっているのに」「無縁を感じる」例を挙げれば、番組で示唆していることが見事に覆る。
たとえばこれが論文だとして「働くこと」「働かないこと」から「無縁を感じるとはどういうことか」をあぶりだして自分なりの結論を導き出しても、反証が提示されていないばかりに(見た目の上では縁があるように見えるのに無縁を感じているという実態の検証がされないばかりに)結論が強引過ぎる印象が拭い去れない。

番組もいよいよ範囲を広げて若者にまで切り込んできたばかりに、収拾がつかなくなってきている印象すらある。
これは集まってもらって議論をしても、収拾のつかないことになるのは目に見えている。
捉えている範囲が広すぎて、筋道があいまいすぎる。

私はどちらかというと「若者」の「孤独感」「孤立感」のほうがわかるので、中年からの「無縁」とは質も実態もまったく違うとわかる。
若いと「家族」や「家庭を含める個人の経済状況」特に「家庭での価値観」が関わってくる。
しかし年をとってくるとそれらの「家庭の問題(形成された価値観・経済的環境)」は「遠い過去に埋もれた潜在的な問題」になってきて、もっと社会で暮らしている側面・影響が家庭よりも強く関わってくる。
中年からの「孤立感」「孤独感」というのは、今まで過ごしてきた環境、自分のやり方、価値観、それらが一気に否定され、今までの思考回路では一切が通用しなくなるような精神的な閉塞感がある。
これは若者が感じている「人と繋がれない」「価値観があわない」「何かの拍子に自己否定される」という「恐怖感」や「恐怖感への保険」とは少々質が異なるように感じる。

私はネガティブな精神状態の中に長年いたことから、自己を否定されることや、働くことを通しての心理状態も多少はわかる。
働いていないと確かに「無職」として、「人が白い目で見ているのではないか」「社会の役にも立たずただ意味もなく生きているだけで、生きる価値がないのではないか」という心理になってくる。
そして事実そういう論調を口にする輩もいるし、「人間としてどうなの?」とまで言われたこともあるし人が自分を見る目に対して吐き気を覚えるほど申し訳なく感じてきたこともある。
それだけに自分がしっかりと社会に貢献するという意識は自己の充実感を得るためにも必要な手段の一つとは言える。
しかしそれだけではいけない。
働いていても否定される人はいるし、働くことで壊れてしまう人もいる。
当然職についても「無縁」「孤独」「阻害」を感じて職から離れる人もいる。
そういう人たちを番組でも出してきたはずなのに、その人たちが辿ってきたルートをかいつまんで、分岐点すらかいつまんで出してしまうと、見ているほうは印象を操作される形になる。
その人たちのルートを厳密に洗い出さないというのは、結論を先走って考えている。
取材の結果見えてくるものではなくて、取材で見ているものを先走って提示しようという焦りすら番組に見える。
これでは本当の問題は出てこない。

一年ほど前にやった無縁社会の番組は、無縁へ至ったルートがあぶりだされていた。
あの番組は本当に衝撃を受けた。
ああいう例をひとつひとつまとめあげて、出てくる環境の要点を搾り出し、さらに要点のさらなる検証をしていく必要がある。

先日初めて「ジャパンシンドローム」という言葉があるのを知った。
http://www.nhk.or.jp/asupro/
(いつまで公開しているかわからないけどNHK「あすの日本」で見れる)
高齢化の問題や、孤立化の問題、雇用、消費、これらの問題は日本が世界で初めて抱えている問題として世界中が注目しているらしい。
都市部の10分ほどいったところでさえ朽ちた民家が立ち並ぶゴーストタウンのような光景がある場所がある。
高齢化によって消費や労働力にもろに響き、それが経済に深刻なダメージを与えている。
「無縁社会」がこれらの問題と直結しているのはよくわかるのだけれど、本当の「無縁の問題」とは、「私たちが経済成長の中で失ってしまった心のつながりとは何なのか」が一番の問題点だと思うのだ。
その点ではこの「ジャパンシンドローム」と一緒の切り口、これを視野に入れた切り口ではこの「無縁問題」の根にある「失われた記憶」は出てこない。

この番組のタイトルは「無縁社会」だ。
「無縁」とは「縁を失い孤立化していく」こと。
つまりは「失ったものが何かをあぶりだす」ことだ。
だからこそ「今見えているものからは見えない何か」が多数存在する。
それらの問題の根にある「失われたもの」に辿り着くにはどうすればよいのか、もう少し違った視点があってもよいのではないかと思う。

これが私の番組に対する感想だ。

対策に関しては、私たちがもっと「お金がなくなれば何もできなくなる」という状態を回避するために、新しいコミュニティー空間を想像していく必要がある。
それらに関してあらゆる取り組みがなされるのはよいことだし、老人の孤立化や健康に配慮して「一緒に動きましょう」と誘えるのはよいことだ。
私が住んでいる札幌市では、大通公園などを使って結構イベントが開催されている。
そういう活動がもっと活発化していけばいいし、札幌市に関してはとてもよい条件が揃っているように思う。

運動や文化活動を通じて人とつながり、また別のところでも人とつながれる憩いの場を作っていく。
笑顔を作るにはどうすればいいのか。
「共に楽しめる空間を作る」という「共楽」というキーワードを実現するかが肝要だと私は改めてここで提示したい。

P.S.
そう、ひとつ思い出したことがあった。
何らかの事情で学校に行かない、働いていない15~35までの総数は60万人。
これは驚いた。
そんなに?あ、でも自分もそのうちの一人に入っていそう。

もうひとつ最後に気がついたことがある。
私は「団塊世代が何か」ということを理解していない。
何を作ったのか、どんな思考回路なのか、それが見えない。
というか、彼らの世代にはとにかく押し付けられて抑圧されてきたトラウマしか存在しないため、向き合おうとしてもいらだってどうしようもなくなる。
だから自分では見えないものがあるのかもしれない。

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02/10

Thu

2011

人の価値は目に宿る

「たったひとつの部品です。どういう使われ方をされるか、そのことによって部品ひとつの価値が変わる。そのことは、あなた方職人の技術も同じなんじゃないですか?」
~NHKドラマ「ハゲタカ第六回目」より~

小説家としてやっていくために、この言葉を何度も考えている。
ことあるごとに思い返し、一人の作者としてどうあるべきかを考えている。

「いい物を作れば、自然と売れる」

職人気質の人間はよくこう考える。
しかしこれからは違う。
職人の技もその売り方もすべて含めて「事業」になる。

事業をする、ということは買ってくれるお客の元へいかにして届けるか、その過程も含めて計画を練り、戦略的に展開することを言うと考えている。

NHKドラマ「ハゲタカ」を何度も見直している。
特に一回目や最終回を見ながら「お金」と「資本の論理」というやつを考えている。
お金は実に単純だ。
お金をより持っているものが強者になれる。
ゲームのような単純な理屈がそこにある。
何でもできるし、人に言うこともきかせられる。
お金を持っていないものよりも、絶対的にお金を持っているほうが強者になれるという理屈は惹かれるものがあるだろう。

お金もひとつの道具だ。
そう考える人はなかなか普通の暮らしの中ではできない。
物を売ってお金を得る。
でも、本当に「物」だけ売ればいいのだろうか。
売れるものだけ作ってお金というものに純粋に追随していけばいいのだろうか。
こびていくだけなんじゃないだろうか。

お金を獲得するには「仕事」をすればいいと誰もが言う。
仕事をするとはどういうことなのだろう。
単純に「食うため」「生活するため」と子供でもわかるような答えがある。
じゃあ「食って」「生活して」何を得るのだろう。
私は作る側だから、作って稼いで、金だけ得ればいいという考えにはならない。
それよりも、「生活する」ということが人間にとってどういうものなのかも私には定義できない。

「生活する」ということを小説で書けといわれたら、まだその主題は書ききることができませんというだろう。

売れないと本当に焦る。
お金も得られないし、将来のことも不安になる。
ネガティブな感情が支配して、もうだめなんじゃないか、これ以上続けないほうが、いや、もっとお金を得られるように、今売れているものをすぐにでも作って、それだけに徹していればいいんじゃないか。
小説家を目指している自分としては、売れる文章だけ書いて、媚びて、もう書きたいものなんか、目指したいものなんか夢見ないで、それよりも、本当に書くことをやめてしまおうか。

否定され、罵倒され、生活もろくにできない、人間として価値がないところまで言われてしまう。
こんな人生に、こんな道に何か価値はあるのか。
彼らが言うように、自分には今人間としての価値すらないのではないか。
そこまで追い込まれてしまう。
その憎しみや怒りが余計にドロドロとした感情をあおって、どうしようもなく敵意を向けてしまう。
そして精神力を使わなければならない作業に、余計な力を割いて、結局何もできなくなってしまう。
そういう悪循環だった。
おかげさまで弱い人間の精神構造を嫌というほど味わった。

これから「地べたを舐めさせられる」という気持ちや「地べたに這いつくばる」という気持ちは忘れないでいようと思う。
恨みを持ち続けるという意味ではなくてね。

その上で小説家としてきちんと人間を見つめ、人間を相手にし、人間を知っていくためにも、「自分自分」していてはどうしようもないのだ。
芸術家の素質として「情熱」がある。
この「パッション」は独善的なものでなければ、まず成り立たない。
だから芸術家の「芸術性」というのも、一歩間違えればひどく内向的になり、「芸は自然から学ぶことを忘れるな」という基本的なことがぽっかりと抜け落ちてしまうことが多々ある。

小説家としてやっていくためにも「小説を使った事業をする」ということを考えなければいけない。
ようやくこの心境になるまでに相当年月を費やした。
精神が安定するにも相当時間がかかったし、心構えもそう簡単にできるものではなかった。
精神は作られるものではなく、自分で作っていくもの。
自分でこの心に何をつめて、何を発していくかを決めていかなければいけない。
それが人生だし、命を使った一大事業だ。

その上で一番最初の言葉に戻る。
あらゆることは、どういう使われ方をされるかで、その価値が決まる。
人であっても物であっても同じだ。
ましてや個人ならばなおさら。

人の価値は目に宿る。
心をこめて、その炎を目に輝かせながら、小説という事業とその展開に改めて邁進していこうと思った今日の日。
明日は建国記念日か。





何か、ようやく自分がしてきたことが、これでよかったのだと思えそうな予感がしている。

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02/08

Tue

2011

2011年雪祭り大通り会場



今年はうさぎが多かったなぁ。
うさぎ年だからだろうな。

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01/31

Mon

2011




ああ、買ってから数年は積んでいた記憶が。
いつ買ったんだろう。
あったのは知っていたし、読もうとは思っていたものの、後回しになっていた。

読んでみて、強く印象に残ったのは「これは童貞小説だな」と。
読んだ後どうしても「僕」といいたくなるのは、やっぱりこの「春樹節」が効果覿面に染み込んでくるからなのだろうが、やっぱり僕は村上春樹が今は少し苦手なのである。

村上春樹文学に触れた時、特によく感じるのは「ぼやけた曖昧さ」である。
この妙にはっきりとしない感覚がなんとも嫌で、「それはなんなの?」と言われてもうまく説明できない。
つまり、たとえば作者の立場として「僕はこうだと思うし、こうしたほうがいいし、こうあらなければならないと思うんだ。でもそれは僕の考え出し、君は君だし勝手にすればいいんだよ。これは僕と世界の問題なのだから」という距離感。
そんな距離感を取りながらも、さらに「僕と世界は繋がっていて、世界と君は繋がっているのだから、僕と君の関係は無関係とは言うことができないんだ」という、このあいまいさ。
「ああしろ」「こうだ」「あっちへいけ」というメッセージがあるようで、ぼんやりとにじんでいく。
それはまるで、インクで書かれた文章が水につけたらぼやけていくような、すりガラスの向こうで裸らしきものを見ながら想像するような、もどかしさがある。

村上春樹文学を読む時に、みんな深読みをする。
それは春樹の文章そのものに、あらゆる「メタファー(隠喩)」があるからに他ならない。
その散りばめられたメタファーを繋ぎ合わせてパズルのように読者は深読みするのだけれど、ネット化、グローバル化、なんでもよいけれど、この繋がっているようで繋がっていない、でもそれらは世界に存在しているという世界観こそ、僕らが世界を再認識する上でとても大事なことで、でもそれは感じるだけで終わってしまうような、そんな「感触」が残るために春樹の文章をみんな深読みするのだと思う。

僕はこの小説を「童貞小説」だと言った。
僕は男なので女性のことはわからない。
でも「童貞」というのは、リアルのセックスをしていないから、あれこれと女性とのセックスのことを想像する。
そのエネルギーは様々な方向へと飛び火して積み上げられていく。
それは、あたかもあらゆる「メタファー」が存在しているかのように、辞書の中の卑猥な単語に興奮を覚えたり、夏の薄いブラウスの中に透けた下着の色を見て興奮したり、アイドルの写真の水着姿の胸の大小や、股間や太もものあたりに妄想が膨らんで、夜な夜な淫らなストーリーを作っていくという、無限の想像力に満ち溢れている。
少なくとも、淫らなことまではいかなくても、片思いをしたら、純粋に頭の中でデートを楽しんだり、こうだったらいいのに、という純愛に浸りきったり、「童貞」は「体験していないからこそあらゆる方向に向かって想像を膨らませることができる」という「無限のエネルギー」を持っている。
しかし、これがセックスを体験したら違う。
嫌がおうにも現実に直面するし、傷もつけられるし、思っていたものよりか遥かにかけ離れていることは避けられない。
自分の望んだようにセックスできたり恋愛を進めていくことはできないのだ。
もし、そうなってしまったら、もう「童貞のように妄想を膨らませることはできない」。
いくつかあった力の進行方向も、現実の中でできた「傷」や「現実感」そのものに塞がれ、エネルギーの方向性が徐々に定まってくる。
それは生きていくうえで避けられない体験であったり現実感であったりする。
僕らは一度「門をくぐって」しまえば、もう門をくぐる前の景色に戻ることはできない。
それは「童貞が現実を知ってしまった」かのように。
僕たちは「生きる」という行為を通して常に何かを犠牲にして、そして何かを得ている。
この選択した現実はどのように誤魔化そうと避けられないことだ。
その犠牲の出し方や、現実の選び取り方が、僕らの人生そのものに影響していく。
『海辺のカフカ』は、『童貞喪失』の話でもあり、『門』でもあるように思う。
だから思春期の人たちに絶大な人気を得るものだと思うし、誰もが通る道だと思うし、そして「いつかは卒業しなければならないもの」だと思う。
ある日僕らが卒業アルバムを開いて、あの時はあんなこともあったし、こういう風に生きていた、でも、もうここには戻れないのだよな、という現実を積み重ねてきた自分と確かに世界に存在しているものへの対比をしながら、時には今生きている自分を戒めたり、時には懐かしさに浸ったり、また何もかも知らないかのように「あの頃の何も知らなかった自分を思い返しながら世界と自分を見つめなおす」という作用が、この小説にはあると思うのだ。
そしてその時、はっきりと自分が何を「喪失」したのか理解する。
この物語の中にはメタファーは確かに強く存在している。
しかしそれらのメタファーをどう取るのかは、すべて読者にゆだねられているもので、それだけにあいまいでぼやけている。
なんとも言えない御伽噺のような世界観は村上春樹ワールドでしか味わえないものだけれど、僕にはどうしても、あいまいさゆえの苦手意識が取れないんだ。

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01/26

Wed

2011

「都市」という機能

最初に注意として以下の文章は「コミュニケーション空間の育成と人間力」に力点を置いて書いていきます。
「会社と資本」の話が出ますが「経済における会社と資本の役割」とをごっちゃにして考えると間違えますので絶対になさらないようにお願いします。
そして、札幌市政についての提言でもありますので、他の都市の場合はうまくその都市に見合ったものに応用してください。



去年NHKスペシャル番組「無縁社会」の札幌座談会に参加してきました。
「無縁」ということを受けて前々から「都市機能」「都市」とは何かと考えておりましたが、では「都市」になる前の日本人のコミュニティーとは何であったのかという疑問が浮かび、少し民俗学を調べてみたのですが、やはり「村」という単位が最も日本人の根深いコミュニケーション組織なのではないかと考えています。

「無縁社会」というのは、ご覧になられた方も多いと思いますが、都市において、またはそうでなくとも家族や親族がいるにも関わらず「直送(葬式などがなく火葬場まですぐに行って焼かれる)」が多く、遺骨も引き取り手がなく無縁仏になってしまう人の実態を調べたドキュメンタリーでした。
そこに至るまで地縁を失い会社の縁もなく親族の縁もなく肉親の縁も失うというすさまじいものでした。

このような事態を防ぐために我々はどのように行動していけばよいのか。
そのヒントを模索している番組ではありますが、どうやら「無縁」へと至るケースも様々あり、細かく調べた上でカテゴリー分けしないと、とてもではないけれど見えてくる問題ではないと思いました。
それだけ「見えない問題」、これはまさに「心のあり方」の問題にも関わってくることでしょうが、結局は「個人のあり方」にまでメスを入れなければならなくなってきています。

そこで問題になるのは「どうして人の縁が希薄になり、孤立化へと向かってしまうのか」という点です。
ここでは「村」と「都市」の差異を考えたいと思います。

まず大きく上げられる点として「都市機能そのものにコミュニティー組織を解体していく機能がある」と考えています。

1、都市には人的流動性の高さによりコミュニティー意識が育ちにくく、独自の風土が育ちにくい。

2、サービスの多様化・利便性の追及が常になされるため、特に自分で積極的に参加しなくても「誰かがやってくれる」という意識が育ちやすい。

3、技術・知恵の伝承は主に「人」から「会社」という組織に変化している。

4、情報網、情報内容の量の多さと断片化により、スムーズな情報サービスが行き届かなくなる。

5、都市における「お金」と「人」。

6、継承(交流)の断絶による個人の価値観の硬化。

蛇足、水資源の保護。




1、都市には人的流動性の高さによりコミュニティー意識が育ちにくく、独自の風土が育ちにくい。

「村」という組織は隣に誰が住んでいるかもわかるような場所です。
それだけに人付き合いが大変という側面もありますが、「隣人が何者であるか」という認識・安心感が育ちやすい。
これに対し「都市」は人的流動性が高く、土地に対する意識やコミュニティーに対する意識が希薄で、なかなか参加しづらい。
ある本の中に「子供が迷子になった時、土地のものは懸命に探したが、他所から来た人は来たもの同士あれこれと噂話をするだけで捜索には参加しなかった」という記述があります。
特に村ではなくとも、来たすぐの人、札幌でもよくあることですが「引っ越してきた人は除雪に参加しない」という苦情があったりします。
これは隣人をコミュニティーの一員と捉えずに「他人」として捉えているからにほかなりません。
また都会には新聞紙などのニュースが伝える事件、悪意のある他人の介在により、隣人を警戒しているし、また2の影響により深くかかわらなくても生活していけます。
元々社会的な力というのは「お金」というものに目が行きがちですが、「歴史性」にあると私は考えています。
そういう意味では土地の歴史の源は人にあり、人が人に伝えるからこそ、本来の底力が保たれるものと考えるのです。

失業率の問題もありましたが、求人する側もされる側も人や職を選んでいるという側面があります。
隣人を大事に思えない風土では職業観も育ちにくく、相談する人間も似たような年の人間になることが多いため、世代を超えた交流がなされず、各々の心情や意図すらも疎通できない状態が続くと考えています。
世代間の価値観の差というのは、古今東西、そして未来永劫尽きない問題ではありますが、この世代間の情報交換をいかにスムーズにするのか、という点は健全なコミュニティー作りには欠かせない要素となります。
そして2050年には直面する老人の割合が国民の4割を超えるという事態を考慮しても、今からこの問題に取り組まなければ将来の憂いを残すことになります。



2、サービスの多様化・利便性の追及が常になされるため、特に自分で積極的に参加しなくても「誰かがやってくれる」という意識が育ちやすい。

都会は便利であるばかりではなく、資本主義で動いているため、「稼げないサービス」は廃れる傾向にありますが、個人に対するサービスが特化していくことによって「集団」を個々へと分断化していくという作用もあると考えています。
これにより、地域への参加意識が薄れ、個人は独自の趣味に特化した生活をすることができ、極めて個人的な生活をしてもなんら差しさわりがない状態があります。
無論これ自体が悪いことではなく、こういった個人の嗜好は尊重されるべきであり、これこそ都会の都会たるゆえんではありますが、個々に分断化された後の再結合が追いついていない状況も指摘できると思います。
再結合の作用は民間の会社や、ボランティア、現在はソーシャルネットワーキングなどによるインターネットでの出会いなど多様化しておりますが、新しいシステムを考えるにあたり、そのサービスが個人に特化すればするほど集団を個々に分断していくマイナス面の補助を考えなければならないと考えます。
仕事をし、生活も多様化し、疲れ、そしてなぜ稼ぎもできないボランティアに参加しなければならないのかと考える人も少なくはないと思いますが、自分の生活が保障されるのは「お金」を持っている時のみに限ります。
「お金」が途絶えると最低限の生活も保障されない。
隣の家に言って「米がないから譲ってくれないか」などという相談は一切できないし、「お金」が途絶えたときの底辺サポートが見つからない。
もしコミュニティー機能が高まっていけば、「底辺の受け皿」も自然と話題に上がり、徐々に整備されていくと考えています。



3、技術・知恵の伝承は主に「人」から「会社」という組織に変化している。

「村」という社会では、老人から親、親から子供、子供から孫という記憶の継承がありました。
この記憶の継承は知識や知恵を伝道する上でも非常に重要な意味を持ち、さらに重要なのは世代を超えてのコミュニケーション形成にも一役買っていたことは容易に想像できます。
この世代を超えての継承が徐々にすくなくなり、伝統芸能や、職人技術の継承危機問題にも見られるように、「稼げない」知恵の伝道が「無価値なもの」として扱われ、断絶されようとしています。
つまり「資本による価値」こそ大事であって、そうではないものは容赦なく淘汰される傾向にあります。
現在「会社」という組織が資本の力を借りて、独自の知識を積み上げてはいますが、これも資本の影響を受けます。
時代が変われば資本の質も変わる。
常に安定した継承は期待できず世界の経済の影響を都市はもろに受けながら、その軸を変えていく。
この軸が変わるたびに人々が大きく振り回される社会よりも、やはり独自の根を持ちながら発信していく都市のほうがより理想であるとは思いますが、いかにその「根」を長く土に張っていくかというヒントが、もうあります。
幸いにも私の住んでいる札幌市では大通公園で様々な職の祭典がなされていますし、植物の祭典も時折やります。
私は北海道をひとつの独立した国家のように捉え、そして地域づくりをしていくべきなのではないかと考えている人間ですが、大通り公園でやっているような地方の特産品や郷土料理を紹介するような地元の力というのを都市の利便性を利用してもっと盛り上げていくべきだと考えるのです。
その上でそこに参加できる人はどんどん参加していく。
未来を作るヒントは「共に楽しむ」「共楽」という考え方が大事だと考えていますが、「楽を分かち合う」ことを通しながら都市に住まう人々の参加協力をどんどん促進し、その時間を人々が共有していくことにより、世代間の交流も自然と深まります。
つまりは「成功体験を与え、それを共有する空間演出」が資本の流れによっても変化しない軸作りへの大事な橋かけのひとつになると考えます。



4、情報網、情報内容の量の多さと断片化により、スムーズな情報サービスが行き届かなくなる。

これから都市化やグローバル化がさらに進み、都市への世界の影響が強まると同時に、情報量も莫大になります。
様々なサービスが乱立し、必要な支援を行うNPO法人や行政サービスなどの増大により、個々が独自に情報を発信し、そしてそれらがあまりの情報の多さによって埋もれ、必要な情報サービスを探すことが困難になります。
今もすでに起こっている情報量の多さによる情報享受の弱さは、これからますます加速し、受け手を混乱させていくことが予想されます。
この混乱を防ぐためにも地域の情報を発信する中継ポイントや、情報サイトの共有が必要となります。
情報の仕分けはカテゴリー、地域ごとに分類され、それらが情報ごとにトピックスとしてあるのではなく、関連情報が一気に閲覧できるマインドマップのような、情報と情報をツリー形式でまとめる「(言語をよりビジュアルとして認識する)視覚化」された情報整備が必要になります。
情報の視覚化については、まだやっているところがなく、大学の研究結果などを元に実験的に配備していく必要性があるでしょうが、連動型情報、つまりは「行政 支援 生活」と検索を打つ前に、次の単語を連動して先に提示する検索結果、そして個別の事例による逆引きなど、検索システムもより高性能にする必要があります。
また、ネット知識のない人をカバーするために、極めてローカルな、たとえば小学校がくくっている範囲程度の狭い地域で発行している地域新聞を活性化し、組織化することも大事です。
これらのミニコミ誌などをフリーペーパー化することによって行政情報と地域情報、非営利法人情報、個人活動などを支援し、より地域に根ざした情報発信が地域の人たちに伝わるように整備すれば、公民館などの施設も充分その役割を強化できることに繋がっていくと思います。



5、都市における「お金」と「人」。

都市の潤滑油は当然お金ではありますが、観光都市としての魅力は「経済都市」という点にはないことは言うまでもないことです。
その地域にしか見られない、感じられない「地域性」を体感しにくるのが観光客です。
極端ではありますが、どれだけ潤ってようとビジネスマンしかいない都市、市民に必要なものしか売ってない都市ならば、誰も訪れようとはしませんし、お金が稼げるからといって、そればかりでは一度来ただけで、もういいやと思うものです。
私事で恐縮ですが、道外から来た友人がJRタワー展望台エレベーター前に販売している小さなコーナーで雪の結晶の紙石鹸を購入したのですが、正直札幌市がこのような活動を支援しているのは知りませんでした。
女の子は高くても、かわいくて斬新なものに惹かれるようです。
http://www.city.sapporo.jp/keizai/sapporo-style/hatsuyuki.html
どこかで読んだ話では、知的障碍者の方が紙で作った電気スタンドを作っているようなのですが、その商品は少々お高め。
知的障碍者の方が作ったとはどこにも明記しておらず、普通に展示していても買っていく人たちがいる。
こういう活動はどんどん途切れさせずに支援していくべきです。
また、札幌には現在二大祭りがあります。
よさこいと雪祭り。
その他にも小さな催しがありますが、札幌市には市民が積極的にこれらの活動をしようという意気込みが潜在的にあるような気がいたします。
地域に眠っている力は何なのか、それらを掘り起こすためには「きっかけ」となるものをどんどん整備していくことが肝心です。
また地域の力を活性化し、より参加しやすい状態、交流しやすい状態を作り出し、その交流の中で世代を超えた交流により人間力を養うには、情報を受け取りやすい状態を常に維持し、市民が自ら情報発信する土台を整備する必要があります。
「必要は発明の母」と言いますが、まさにこの「必要は何か」を集めることが、結果的には経済活動を促す引き金にもなります。



6、継承(交流)の断絶による個人の価値観の硬化。

都市の利便性がどんどん加速し、ネット上でもあらゆるサービスが多様化していきます。
情報も個人が欲しいものしか受け取りませんし、お金さえあれば人とあまり関わらなくてもよい暮らしが保障されますが、人間は孤独には勝てないものです。
家から出ずに体験しない状態が続けば、想像力が失われ、頭の中だけで物事を判断する人が出てきます。
これは極端な例でもなんでもないのですが、食物の「腐敗現象」を理解できない人がいます。
電球の替え方がわからない人がいます。
冷凍ピザをどのようにして食べればよいのかわからない人がいます。
自分と価値観の違う人間がいたり、自分の住んでいる環境とは違う環境があることを理解できない人がいます。
都市にあまりにも長く住んで他のものと交流しないあまり、自然現象がわからない人がいます。
そういうのは食品や電化製品の「説明書」でも顕著に出ています。
わざとではなく、いい大人が本当にわからなくて電話をしてくるのです。
世代間の交流や知識の伝承・交流が失われると、想像力の欠乏により、さらに悪化した状態が待っています。
そして、人間は思考が硬化すると、なかなか軟化させるのに手間がかかりますし時間もかかります。
一生直す必要に迫られない人がいます。
これらは個人のレベルではありますが、いわゆる閉鎖された村のような価値観が個人そのものに起こり、その閉鎖された個人は異種のものを攻撃するか、ひたすら閉鎖性を保つかのどちらかになります。
都市は常に利便性を追求していきます。
そして個人の価値観も多様化し、よりカスタマイズ性の高いものになっていきます。
ゆえに個人の生活さえ保障されていれば他人の生活なんてどうでもよいという考えが芽生えがちです。
これは結果として「都市での孤立化」を引き起こし、これだけたくさんの人がいるにもかかわらず「孤独感が拭い去れない」という気持ちを引き起こしていると考えています。
都市でのコミュニケーションの課題は、都市そのものが持っている機能と、人間そのものが自然的に持つ欲求との矛盾をどのように解決していくかにかかっています。
人間は自分の生活や趣味を邪魔されたくないとは思っていますが、それらを共有できたらどんなにいいことかと思っています。
人間は自分の嫌なことはしたくはありませんが、一人にはなりたくないと思っています。
相反する二つの感情を持ち合わせ、それらのバランスをとりながら生きていると思います。
バイラルマーケティングという言葉があります。
「バイラル」とは「感染的な」という意味ですが、人々が参加したくなる機能を整備する。
何かをしようとする時にあれやこれやと面倒くさいことが山積みではやる気も起きません。
どれだけシンプルに物事を整備して提示できるか。
これが「硬化」を防ぐ目標となります。



蛇足ですが、これから世界は深刻な水不足に喘ぐと現在でも予測されています。
ですからあらゆる資本家たちは将来莫大な利益を生むであろう水資源に着目して土地を買いあさっていることはご承知のとおりでしょうが、北海道は水資源の宝庫。
特に札幌市の水は水道水でもそのまま売れるほどおいしいことで有名です。
自然環境の保護と自然資源の確保は生き残るための絶対的な条件となります。
札幌市はこれからおいしい水を確保し、水不足や汚染された水資源の多い地域に水を販売するビジネスを展開して予算を独自に確保するような活動も必要になるかと思います。


それではとりとめなく、重複したことも多かったことながら、最後までお読みいただきありがとうございました。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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