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あさかぜさんは見た

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08/12

Thu

2010

作品と資金 電子書籍の分野で

電子書籍は紙よりも安価で販売すべきだという意識があります。
実際は「紙」で、いくらなんだから、「紙を使わない」電子書籍は安くて当たり前だという意識なのだと思います。
この感覚は、「作品」というものにお金を払っているという感覚ではなく「物」に対して払っているという意識になります。
また日本には「チップ」という感覚がなく、「育てるための援助」という感覚が薄いこともあるのではないかと考えています。

本をたくさん読みたい人にとっては、安価で良質な作品が数多く手に入ることは、とてもよいことでしょう。
しかし大御所、つまり名前の売れた人ならば大量販売ができるので、逆に利益が増える場合がありますが、そのような方は一握りで、たいていの場合は苦しみます。
作者のみならず、作者を取り囲む環境も苦境に立たされます。

実際、本格的な小説を書こうと思った場合、資金が必要になります。
取材費と言われるもの、資料代、交通費、滞在費、交際費、書き終わるまでの生活費など、実は様々なお金がかかります。
それをやらないで書けるものは「まったくの想像」で書いたか、「何者かがすでに書いてまとめてある」ものしか手が出せなくなります。
このことが一体何を意味するかというと、「類似した作品が数多く産み出される」のみで、あとはその職業に携わっている人が文章能力を身につけて書き上げるか、文章能力のある人に現場の人が小説にしてくれと依頼するか、いずれにせよ「人間を等身大で描く小説」が少なくなることは確かです。
と、言っても、若い世代に売れている小説の多くは「人間味」への描写力を求めるよりも「お話としての奇抜な構成とわかりやすい感動」が書かれているものが売れています。

実際私も、自分に対しても、この流れに対しても「このままでよいのだろうか」「何を通すべきなのか」というジレンマを抱えながら書いています。
文芸における「市場」というのも「資本主義」ですから、会社側は多くの人がお金を出すところに、類似した作品を投入するということをやりがちです。
または売れるまで乱発するということをやっています。
ちょうどお笑い芸人が次々と現れては消えていく、あのような状態に陥っています。
これはただ「売れればよい」という考え方で、「実力を持った人間を育てたい」という意識はどこにもありません。

この電子書籍の世界は現在出版社、印刷会社が動き、電子端末を作る会社、携帯電話会社、様々な業界が動き、きな臭くなっています。
この一連の動きはかつての音楽業界の動きと一致していくのではないかとも言われています。
面白い文章を見つけたので転載させていただきます。

http://www2.plala.or.jp/wasteofpops/
Waste Of Pops 80s-90s|カバー曲・消えたバンド・ニュース
2010年8月10日の記事より引用。
着うたの安易な「曲」単位の促成プロモーション連発の結果、継続的に売上を維持できるような「スター」育成が困難な状況に陥ったとか、90年代の売上が異常だっただけにもかかわらず、そこをスタンダードにしてロクに次の収入源になりうる別事業も想定しないまま現在に至ったこととか。

この記事は音楽ファイルを違法アップした人間に裁判所が賠償金の判決を出したということで、「業界が衰退している理由はそこではないだろ」という内容です。
そのうちまた「購買層の責任にするのではないか」ということも書いておられます。
この業界の動きは現在の出版業界にも言えることです。
つまり「作り手が最大限効果的に動ける環境」よりも、「自分たちの利益をいかに確保するか」という動きなのです。
これは推測ですが、もしかしたら勘違いをしているのかもしれません。
「俺らの会社が衰退したらお前たち活動できなくなるだろ。だから俺たちの利益を確保することはお前たちの活躍の場を広げることなのだ」と。
もしそんな考えでやっているのだとしたらこの本の業界も同じ道を辿ることになるでしょう。
売れる人間だけを押し出し、某グループのように安易にどんどん曲を作り、ベスト版のような過剰な宣伝で次々と売り出す。
挙句の果てには、もっとえげつなく特典パッケージなるものも出すかもしれません。

小説というのは非常に隙間産業ではあります。
誰もやっていないようなことを自分なりにアレンジしていく。
そうして、誰もが持っていないような特色を売りにしていく。
これは非常に時間がかかる作業ですし、いつ「開花」するかも保障できないことです。
ですから、安易な方向に向きがちです。
そして特に生活に絶対必要なものでもないですし、日本人百人のうち一人が、その作品に触れていれば「凄い」と言われるような世界です。
非常にコアな世界に、多くの人がひしめき合っているという状態です。

この、電子書籍の世界も、ひとつの「道楽」「伝達媒体」として多くの人に定着することだと思います。
多くの人が日本語に触れることはとてもよいことだと考えています。
しかしその一方で、本当に実力を持った人間が埋もれるというリスクも抱えます。
毎日千近くもの作品が出てきた場合、自分と非常に合う作品と出会うことは「地球上でたった一人の運命の人」と出会うくらい困難なことになるでしょう。
才能が次々と現れ、育たずに消えていく、ということも起こるでしょう。

これからのこの世界の時代を作っていくのは、作者だけではありません。
その作者を取り囲むすべての人であることは言うまでもありません。
一体何に対してお金を払い、そして守っていきたいのか、育てていきたいのか、ということを一度でも考えていただければ、この文芸の市場も、少しは変わるのではないかと考える次第です。

そして私たち作家の活動は、電子書籍時代を迎え、もっと「本らしい面白み」から「面白みを共有するコミュニティー作り」に発展しなければならないと考えています。
ようやくそこまでの活動ができて「一人前の作家」となる時代はもう開かれています。
何を残していかなければならないのかを、我々作者、編集、それらを取り巻く人たちは考えなければいけないのではないかと思っています。

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08/06

Fri

2010

札幌は30度を越えている。
あまり超えることがないだけに暑い。
慣れていない。

30度でさえ集中しないと自分が何を考えていたのだが忘れてしまいそうなのだから、35度となったら何も考えられなくなるだろう。

どこかに暑いと書きたく、南の人からすれば「そんなもん暑くねえよ」と言われそうだが、きっと私が東京とか大阪とか福岡あたりに行くと、病院に運ばれそうな予感がする。
まだ暑いといっても、夜は涼しくなってくるので眠れない夜とまではいかない。

…で、何か考えていたのだけれど何を書こうとしたのかも忘れた。
このままこの日記は終わりたい気分に今直行しつつある。

いや、ちょっと待て。
ああそうだ。
あ、でもいいや。

暑いとあまり動きたくなくなる。
きっと酷暑の場所で働いている人はこんな感じなんだろうな。
…と、勝手に当てはめてみる。

突然「あーっ!」と叫びたくもなるが、やっぱり思い直してやめる。
体が熱くなるからだ。

今日は何のためにもならない内容だ。

あ、そうだ。

手足の痺れや舌のもつれを感じたらすぐに病院に行きましょう。
特に中高年の方。
脳の血管が詰まって、最悪の場合死ぬことがあります。
甘く見ないように。
水分補給をしっかりと。

なんとか暑い夏、乗り切ってください。

最後に寒くなるギャグでもひとつ…え?いらない?
じゃあやめます。

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07/31

Sat

2010

膨大な量の知識がこの世界には存在している。
それを全て知ることは不可能だし、ましてや「お前そんなことも知らないのか」という言葉を吐くということは逆説的に「いかに自分の了見が狭すぎるか」ということを露呈させているに等しい。というか、むしろ子供過ぎる。知ってなければいけないこともあるが、そっと差し出しておくのが大人でカッコいい。
知らないもの同士教えてあげるというのが最もな付き合い方だと私は思う。

この世界には知識だけを語って知恵を持たないものがいる。
「この人バカだなー」と思う時、その人は現実世界での感覚から知識を語るのではなく、知識から感覚を作り出そうとしている。
頭だけで作り出されたものに本当の叡智は存在しない。
「机上の空論」という言葉は知っていても、それがどんなものかは知らない。
私は「体験」にずっと耳を傾けている。
別に知識がなくても、世間では頭がいいと認められなくても、きちんと自分の体験から得た考え方や思いというものがあれば、それだけでその人の一つの個性、大事なもの、だと考えている。
そういう人は「バカ」とは言わない。

この世界は知識だけならいくらでも集めてくることができる。
それらしく感覚のない知識だけで作り出された血の通ってない「まがいもの」は量産できるだろう。
ただし本当の「叡智」は、そう簡単には量産できない。
その人が人生において培ってきたものを凝縮しなければいけないのだから、大変な作業なのだ。
だいたいそういうものって観察も含めて「実体験」だ。
自分で見聞きして感じたものを凝縮している。
知識をつけることは大事なことだ。
大いに人生に役立つことがこめられている。
しかし知識だけを無駄にむさぼり、自分の感覚からもそれたものを語ろうとする者はたいてい「バカ」だ。
あまり例外はなかったりする。
しかもそういう人に限って「感覚」が欠落しているので平気で人にも自分の知識を押し付けてこようとする。

しかし間違ってはいけないのは他人に向かって「バカだ」とは言わないことだ。
それは意味のないこと。
言ったところで機嫌が悪くなるだけだろう。
大事なのは「自分がバカなのではないか」と気がつく、考えてみる、ということだ。
自分の普段の素行を考え、「バカに成り下がっているのではないか」と省みることが「知識が板についてくる知恵への一歩」であるのだ。

と、まあ、自分のことをちゃんと見直せる人ってバカじゃなくて、それができない人がバカだから困るところなのだが。

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07/26

Mon

2010

自己思考破壊の快楽

http://www.ebook2forum.com/2010/06/mechanical-or-logical-approach/
機械思考と論理思考:ゲシュタルト崩壊を超えて : EBook2.0 Forum
ゲシュタルト=人間の精神は部分や要素の集合ではなく、全体性や構造こそ重要視されるべきとすること
ゲシュタルト崩壊=全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt: ドイツ語で形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象
Wikipedhiaより

これは面白い記事。
電子書籍分野におけるシステムの捉え方の話だが、ピックアップしていくと特にこの分野に興味がなくても学ぶべきものがある。

>それはオープンスタンダードとオープンソースによって実装における複雑性をいとも簡単に乗り越えることができるからだ。ただしこれらを効果的に使うには抽象化能力に優れた個人を必要とする。

意外にもこの抽象化能力の高さってやつが後のアイディアの精度、作品における完成度にも関わってくる。
一つの基点から抽象化していくも、抽象化されたものから基点へとたどり着くのもプロセスはどちらでもよいけれど、アイディアを発展させていく上でも、ビックバンのような抽象化能力は求められる。

つまりどういうことかっていうと、アイディアって「思いつき」なわけでしょう。
お話を書くって結構「思いつきの連続」で、さらに求められるのは「発想力の柔軟さ」なのである。
そうじゃなきゃ最初からガチガチで行き詰ってしまう。

例えば自分の彫刻作品を作るのに、最初から出来上がったものが目の前にあったら、作りようがない。
せいぜい壊れないように磨いて、その状態を保たせるしか方法は残っていないわけだよね。

「感動したいよな」という人が目の前にいて、あなたは石しか持ってない。
それをそのまま投げつけてしまったりするのは「思考停止状態」に他ならないし、ちょっとイカレテル。
泣かせることはできるかもしれないけど、それは「感動」じゃない。
それとも石を振りかざして「感動しろよ」と脅しちゃう?
でも我々って日常でそれに近いことを気がつかずにやっていたりする。

抽象化するっていうのは、自分が持っている「石」を「石ではないのだ」と捉えるところから始まる。
そうじゃなければ別の用途が思いつかない。
目の前にあるもの、持っていた思考、そういうものを「再加工」するには「思い込み」では狭められる。
結果的に最後に出来上がるものは、抽象さというものをとことん削っていった具体的なものになるが、それは「結果」「結論」だ。
それってしかも「絶対」ではなく「ある一つの現象」だ。

ほとんどの人ってここから発想を広げることができないし、あいまいな状態から一つの現象を導き出し、統計的に結論付けていく、という両方の視点は持っていない。

>抽象化能力は論理思考、数量化思考とイコールだが、米国は偉大な人材を生み、育て、受け容れて存分に活躍できる場を提供することで最大のソフトウェア産業とWebビジネスを築いた。日本は逆に、学校教育で抽象化能力を退化させ、この「異能」者を隔離して実社会での権力を与えなかった。

この部分は非常に鋭い私的なのではないかなと考える。
日本では権力を与えないどころか、「穴埋め式」に特化してしまった。
社会のシステムも人々の思考のあり方も、ほとんど多くの人は「与えられた答えのマスに決められた答えを書く」という「穴埋め式」の行動様式となってしまった。
結果社会を構成する部品は数多く生まれたが、社会を牽引する才能は生まれづらくなっている。

「金槌しか持たない人間には、万事が釘のように見えてくる」

現在の日本人の特質はこの言葉に集約されるのではないのかなと考えたりする。
私たちってなかなか自分がこだわっている発想や気持ちを捨て去ることができないし、何かにとても執着しがちだ。

「現状把握」「現状認識」はとても大事だし、今の行動を決める上では重要な材料になるが、現実を認識する能力だけでは非常に危うい。
だからこそ「抽象化能力」が求められるのだけれど、これって「俺ロケットとかに頼らないで宇宙に移動してみたい」って言ってみるのと一緒。
たいていの日本人って馬鹿にするんじゃないのかな?
今は無理でも自分たちが死んだ後に実現されるかもしれない。
しかもその技術のきっかけになる発想って、この人が作り出してしまうかもしれない。
そういう「現実的な可能性」のことにすら想像が及ばなくなってしまったというのは自分たちで首を絞めあっているのと同じ行為だということに気がつかない。

IT化が進み、ネット環境が整うということは「思考が常に世界から試され挑戦の場に置かれる」ということだ。
ここから乖離するには非常に閉鎖的な独善性に特化するしかない。

>出版社にとってのコンテンツの価値最大化は、つねに読者を開拓することでしか実現しない

これは作者にとっても言えること。
読者に媚び続ける発言や作品作りは論外だが、どうやったら効果的に発信して、かつネットワークを構築できるのか。
その上で出来上がった空間に読者が参加してくる。
これが次世代の「作品作り」になってくるのではないかと考えている。
これは「本」というものが進化するのではなく、基点に戻ろうとする抽象化作業だ。
その上で「時代」というものとどう共存していけるのかを考えなければいけない。

私たちは日本語を扱っている。
そしてその豊かな言語性によって思考や精神を重ねている。
「日本語」という可能性から生まれる様々な未来について、「日本語を通して共有する」という作業がなければ、言語というものは、その可能性を失ってしまう。
そんな危機感を持ちながら、ひとつ動画を見ながら思ったわけです。
「ドルアーガーの塔」や「ゼビウス」というゲームを作った遠藤雅伸さんという人が話していたことですが、

「(昔ファミコンやってた人が再度やって)面白いなっていうのは本当に面白いのではなく、自分の思い出に対しての価値観が変わってないだけ。ファミコン廃れた世代にも面白いって言われたら本物だけど大抵そんなことはない。ゲームにおける普遍性というのはこれから考えられることだけど、でもどうやらトレードオフ(ハイリスクハイリターンなど、ある一方を犠牲にして対価を得ること)は重要らしい」

ゲームのことだから本作りとは少し事情が違うけれど、ゲームとは違ってまだ「普遍性」というものは「本」にはある。
特に「文学」とか。
それでもこれからは「本作り」やそのアプローチの方法において「内容」は変化していくであろうことは容易にわかる。
でも私たちって基本的に「文化」というものに望んでいるものって、自分たちの生活をより精神的に高めるための共有感覚なのではないのかな。
個人がたった一人でいい思いして便利になってなんでもできて、それでも孤独が消え去ることがないという違和感を持ち始めているわけでしょ?
そういう「孤独になるかもしれない」「何か寂しい」という予感に強烈な不安感を感じているわけだ。
それって我々が精神的な価値感覚による「文化」というものを失いつつあるからじゃないのかな。

他者を受け入れるということは常に変化にさらされる。
そんな人とのつながりの中で自分がいい方に変えられる快感っていうのは、なかなか感じることができなくなってきているのは、私たちが思考・精神ともども「孤立化」してきているからじゃないんだろうか。
守り続けなければいけないものもある。
しかし変化し続けなければいけないものもある。
その両者のバランスを失い、基点をなくしつつあるのが今の状態なのかもしれないと思ったりする。

私は文章を書いているから、たいそうなことは考えられないが、まずは本というものを考えるなら、「中身を伝える」パッケージの重要性もあるけど、本の中身の面白みっていうのは構成の技巧とかストーリーの面白さとかに目がいきがちだけど本当は読んだ後に「なんか今までの自分とは違う」っていう変化と感じた人間味。それを「他人と共有できるかもしれないっていう期待感」にあるんじゃないのかな、と考えている。

私たちは本をなどを通じて互いの考え方の違いを楽しむ豊かな「教養」を育てることに非常に無頓着である。
もっと自分が心地よく破壊されることの快楽というものを考えていってもいいと、望んでいる。

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07/23

Fri

2010

Kids Return キッズ・リターン



北野武監督作品。
いまさらながら初めて見ました。
前々からずっと思っていたのだけれど、映画評論家故淀川長治さんも北野監督の映画を絶賛しておられたし、故黒澤明監督も褒めておられた。
実際『HANA-BI』では第54回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞したし、ヨーロッパではだいぶ評価は高い。
なぜ日本では爆発的に彼の映画そのものが喜ばれないのか。不思議でならない。

非常に映画全体がテーマ性、これは人間性というのだろうか、そういうものに溢れているし、そもそも北野武映画の一番凄いところは「間」なのである。
もともとお笑い芸人というボケツッコミの絶妙なタイミングとアイディアで魅せることを長くやっていたから、あれだけの「間」が出せるのだろうが、世界を見ても「静」から「暴力」「動」への狂気ともいえる、あの絶妙な「間」を出せるのは北野武監督ぐらいなのではないかと考えている。
それに自分の能力というものに対して「遊び」を多用するのも特徴だろう。自分へのノスタルジックな感情が映画全体に溢れている。

この「キッズ・リターン」という映画、カツアゲする高校生のチンピラと友達、二人を中心にして、お笑い芸人を目指す二人、ヤクザ、気の優しく人の言うことを断れない一途な男、など人間模様が華々しい。
シナリオ的にも非常に文学的だなと思うのは、多種多様な人間を同時に追うことで、それぞれの生き方、道の歩み方をフラットな状態で見つめている。
別にどの生き方を批判するわけでも賞賛するわけでもない。互いにリズムがあって、他人を巻き込んでいく。その生き方のリズム感というものがギクシャクすることなく同じ映画の中で展開されている。大人になってこの映画を再度見たとしても、あるひとつの発見があるだろう。
それはノスタルジーでも切なさでもなく、「再会」なのだ。
何に「再会」するかは人それぞれによるだろうが、子供が見れば未来のとある可能性、大人が見れば「再会」が待っている。

北野監督映画には「生」と「死」が同居している。次の瞬間人はどうなるかわからない。ひょいと誰かに不幸を渡されたり、幸福を渡されたりして、嫌でも先の人生で渡されたものを背負っていく。そして誰かに背負ったもののせいで余計な不幸を与えられたり、せびられたり、幸福へのチャンスを与えられたりする。
意識しない限りはその分かれ目は理解できないし、意識してもわからないことだらけだ。
「終わってもいないし、始まってもいない」
次には「生」が失われているのが「人間」だろ。逆に「生」を与えられているのが「人間」だろ。
北野監督作品にはそんな乾いた視点が光っている。
ゆえに生きている限りこの作品は続いてゆく。その続きを演じているのが観客であり、そして北野武監督自身でもあるというのがこの映画の醍醐味なのではないかなと思う。

ちなみにまーちゃん演じる金子賢のほうが、後に2年ほど格闘技人生を歩んだというのは現実での出来事。一方シンジ役の安藤政信はテレビ抑え目でちょこちょこ映画に出ている。

身勝手なことを言わせてもらうと安藤政信、目が純真なのに動きが狂気じみている。普段のインタビューから見える彼の姿は非常に棘があるし、丸みを帯びているような役どころで彼を使うのはもったいない。顔立ちが上品なだけに騙されそうになるけれど、彼が本当に伸び伸びと演じれる狂気を内側に内包した役どころを演じさせたら海外の賞なんて軽く取れると思うなあ、なんて思っちゃったりするわけです。

さて、それでは今日はこの辺で、さよなら、さよなら、さよなら。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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