私はあの人の中に「子供のような純粋さ」を見る。
あの人が一番凄いと思うのは、誰よりも弱い自分、そのもろさを徹底的に肯定しているところだと思う。
大人は誤魔化す。
誤魔化して自分の感情を認めなかったり突き詰めなかったりする。
しかしあの人は違う。
寸分余さず、誰よりももろい自分を徹底的に突き詰めようとする。
逆説的にそれが強さになっている。
「子供の純粋さ」が最も結晶化していないとできない作業だし、道具を体の一部とする感覚機能も突き詰められない。
自分を一欠けらでも否定しているところがあれば、道具を神経そのものにすることはできない。
凄い。
あの人はアーティストだ。
追記:
演奏者というのは、技術が高まってくると、自分の中に限界が生じる。
これは演奏者じゃなくても「道具」を扱うものの宿命なのだけれど、演奏者における音の限界とは「楽器」そのものにある。しかし、楽器というものが、道具ではなく身体の一部になると、音に魂が乗るようになる。
たいがいにして最高の演奏者という人たちの音が感動に満ち溢れているのは、その音に込められる人生観を聞き取る以上に肌身で感じとれるからに他ならない。
これは演奏者が楽器を体の一部としていなければ到底できないことである。
「道具」を「体の一部」にするにはどうすればよいのか。
秀才と天才の違いは、秀才は技術における最高のレベルを極められる人。
天才とは技術を超えて「感覚の世界」において最高のレベルを極められる人だと自分は思っている。
秀才と天才の壁はここにあると考えている。
だからこそ「天才に理屈」はいらない。
「感覚の天才」であればよいだけで「理屈の天才」である必要性がまったくないからだ。
普通人間が育つと過去の経験を裏打ちするために「論理を固め」ようとする。
天才とは自分の感覚を知る。
その感覚におけるデータを自分の中に蓄積すると、今度は「ブレ」がわかる。
どれだけ落ちたのか、上がったのか、調子のいいとき、悪いとき、「平均点からどれだけずれているか」がわかって、自分が今どこにいるのかも正確にわかる。
この感覚はたいがい失われる。
大人になっていくにつれ、集団における協調性というものが、いつの間にか他者に気を使ったり(それが自分の中の主軸になり)、何か言われてひどく気持ちがぶれて元に戻せなくなったりということは往々にしてある。
しかし、ちゃんと自分の位置を知っていれば、また元に戻ってくることはできる。
他人に振り回されていればできないし、自分の中に絶対的に信じるものがなければ、なかなかできない。
自分と戦い、相手とも戦う。
自分の中の「ブレ」を精密に見つめ続け、観測し、蓄積させ、すべての自分の状況を把握した上で、向かってくるものに対して、水を流し込むようにして自らを適応させる。
つまり、「あらがうこと」と「従うこと」という、まったく正反対にある両極を極めなければ、絶対この境地にまでは達することはできない。
総じて「プラス」と「マイナス」を同時に最高のレベルで発揮するのだから、「ゼロ」 … 無限大の可能性なのである。
でもね、これにはもうひとつ危ういマイナス面があって、普通の人が簡単に忘れ去るようなことでも、ひどく心や体に傷として残るほど致命傷になるときがある。
彼が他人のバットを絶対に持たないというのは、そういう理由だと思う。
「感覚が鋭い」とは諸刃の剣なのである。
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