前にも載せたけれど、
何度も教訓にしている。
ぼくにとっての関心というのは
今を見ること
それはぼくにとっての
メビウスの輪ですよ
それを箱とか
壁とか砂というものに投影する
いい投影体を探すことですよね
ぼくは実は
テーマを考えながら書くんじゃない
みんなそう思うらしくてね
テーマはテーマはというんだけれども
テーマというのは後でね
作中人物とぼくが共同で考え出す
だから作中人物がテーマを思いつくまで
僕は待たなきゃいけないわけね
視点を変えるとね
わかりきったものが迷路に変わるだけですよ
例えばぼく昔なんかに書いたことがあるが
犬ね
犬は目線が低いでしょ
においは利くでしょ
だからにおいでもって
においの濃淡で記憶や何か全部
形成しているわけでしょ
だから犬の感覚で地図を
仮に地図を作ったら
これはすごく変な地図になるでしょう
体験レベルで
ちょっと視点を変えればね
われわれがどこにおかれているかという認識が
ぱっと変わっちゃいますよね
その認識を変えることでね
もっと深く状況を見るということ
だからぼくはね
結局文学作品というのは
ひとつのもの
生きているものというか世界
極端に言えば世界ですね
小さいなりに生きている世界
というものを作って提供する
そういう作業だと思っていますけどね
だからお説教や論ずるということは
小説においてあまり必要ないと思う
いわゆる人生の教訓を書く
なんてことは
論文やエッセイに任せればいい
小説と言うのはそれ以前の
意味にまだ到達しない
ある実態を提供する
そこで読者はそれを体験すると
いうもんじゃないかと思う
――それを割合わたしなんか意味を読んでしまう
――と、やはり迷路に入るということ……
いや、迷路でいいんです
迷路というふうに
自分が体験すれば迷路なんです
それでいいんです
終局的に意味に到達するのは
間違いですね
これは日本の国語教育の欠陥だと思う
ぼくのもなぜか教科書に出てくるんですよ
見ていったら
「大意を述べよ」と書いてある
あれぼくだって答えられませんね
ひと言で大意が述べられるくらいなら
書かないですよ
それこそ最初から
ぼくは大意を書いちゃいます
「人生というものは
赤い色をしていて
中にはちょっと緑色が入っている」
例えばそれが大意だとしますね
そう書いちゃいますよ
最初から
よくあるよ
温泉なんかの案内図
山書いて道路書いてロバがいて
花が咲いて…あるじゃない
ああいうもんだよね
もともとの小説がそういうもんならね
そりゃいいでしょ 解説で
だけどね
実際の
例えば地図というものはね
そんな簡単に
ちょっと見てもわかりませんけど
見れば見るほど際限なく読みつくせる
いちばんいいのは
航空写真とかそういうもの
無限の情報が含まれている
その無限の情報が含まれていないと
ぼくは作品と呼べないと思いますよ
無限の情報ですよ
人間なんて 考えてみたら
そういうふうに人間を見るということね
見なきゃいけないし見えるんだよ
ということを
作者は書かなきゃいけない
読者に伝えなきゃいけない
ぼくらは子どもの時からね
五族協和という教育を受けているんですよ
満州では
五族というのはよくわかりませんが
日本人 朝鮮人 中国人
ロシア人 蒙古人 でしょうかね
そういうのが平等であるということを
建て前として教えられるわけですよ
子どもだから信じるわけ
クラスの中にも異民族いましたしね
ところが汽車なんか乗るでしょ
そうすると日本人の大人が
中国人が座っていると
けっ飛ばして席どかして座るでしょ
そういうのを見てやっぱり頭きてたよね
五族協和に反すると思ってさ
結局子どもの時に素直に
五族協和を信じたことが
いろんな疑惑を逆に生むという
結果にはなったと思いますよ
それからやっぱり
なんでこんなに生活の差があるのか
あるべき姿でないと これは
――そこへ敗戦ということが生じたわけですよね
まあそうですね
僕も家といえば満州だった
それがなくなるわけでしょ
だから敗戦というものは観念じゃなくて
愛国心が裏切られたとかじゃなくて
事実もう
場所を全部失ったということは
頭じゃなくて体で感じていた
でもそれが
そんなにつらくなかったね
人間って しょせん
いつでも何かを失っていくほうが
幸せだと思った
満州で育ったということは
非常に都市的な生活をしてきたということなんです
子どもの時から
そして周囲に農村がないということですよ
農村は全部中国人ですから
だから満州で育った人間の一つの特徴は
非常に都市的な人間に
生まれた時から作られてしまった
ということがあるんじゃない?
だから農村と都市との問題については
非常に敏感にぼくの問題になった
ということは言えるでしょう
――それはその後も
そうですね
いろんな発想の一つのバネにはなった
――自分と他との関係…
ですね
自分というか
他者というのは何かということですね
他者との通路を回復しない限り
人間の関係というものは
本当のものはできないんだ
ということで だから
ぼくの小説のある意味で一貫したテーマは
人間の関係とは何か
他者とは何か
他者との通路の回復はありうるのか
というところが
一貫したテーマの一つになっている
自己流の解説:
最初の部分で「メビウスの輪」と言っているのが面白い。
メビウスの輪は「堂々巡りをしてゴールに行き着かない」ことを意味している。「無限のねじれ」「表裏がない」「あるところで切ると輪ができたりする」などの意味もある。
はたして同じところを無限に巡ることに意味はあるのかという疑問が生じるが、「小説と言うのはそれ以前の意味にまだ到達しないある実態を提供する」と言っている。
ここに安部公房の作品に対する最も鋭い視点がある。
全体を示して「これはメビウスの輪」という前に、もっと細かなレベルで「輪を見る」。
この「もっともっと細かく、細かく、どんどん細かく見ていく」この作業において突き詰めていくと、そこに存在している確かなものが「テーマ」となりえる。
その実態を寸分の狂いもなく描ききることで、逆になんらかのテーマを持ちえる。この実態を捉える作業に狂いがあれば、瞬時にして作品性が消え去る。
常に主体となる世界を通して、何か別のものを投影できるのは、最初から「テーマ」を捉えているのではなく、誰かがもっている世界観を厳密に突き詰めていくことにある。それが勝手にテーマを持ち出す。
小説における役割というものは、もっとあいまいで確かに存在している実態を捉えることで、そこに「普遍性が」とか「人間性が」なんてのは、最初から考えて書くとなると、小説においては、ひどく薄っぺらく滑稽になるということでもあろう。それは論文やエッセイにまかせろ、と。
都市と農村は簡単に言えば人口と自然、機械と五感。都市と農村が持っているものを厳密に突き詰めれば様々な人間テーマが生まれてくるだろう。
「いつでも何かを失っていくほうが幸せだと思った」
逆説的で、言及のできない言葉だが、むしろ「喪失」、それは「取り戻せない何か」ではなくて、もっと前向きな意味として、「再生」と「再結合」別のものとしての「再結晶化」を意識した言葉なのだと感じた。
だからこそ最後は、「ぼくの小説のある意味で一貫したテーマは人間の関係とは何か、他者とは何か、他者との通路の回復はありうるのか」と言っているのだと思う。
作家であろうとするものにとって安部公房のこの言葉は永遠の教訓として胸に刻んでおかなければならない。
[1回]
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