ドラマの話じゃありませんよ。
本当の林檎の話です。
おばあちゃんに農家の親戚がおりまして、りんごやみかんを送ってきておりました。
おばあちゃん一人では食べきれないので、いくつか母親がもらってきていたのですが、並べてある林檎をよく見てみると、ふぞろいで形も色々あります。
もし、これがスーパーなどで並んでいると、「同じ値段なのに大きさも形も違うのはおかしい」と、あたかも「不自然さ」を強調するのですが、よく考えてみれば形も大きさも違うのが自然そのものの姿なのであり、形や大きさが揃っているというのは、ある意味「異常」なのです。
例えば、化学調味料のきつい味に慣れていて、天然の調味料で味付けしたものを「味が薄いし、おいしくないよね」というのも「異常」な話なのです。
私もふと気がついて、ぞっとしたのですが、我々の生活は「異常なものを正常なものとして受け入れる生活」をしております。
我々は自然界に存在し得ないものを次々と作り出しては、我々の王国を作り上げています。
その王国の中では、不自然で人工的なものが「自然」で、当たり前すぎる自然的なことが「不自然」、もしくは「不可解」なものとして、思考からも物理的にも排除して「自然の状態」に近づこうとします。
これではまるで逆さまで鏡のような世界です。
異常な生活を日常と呼び、自然なことを排除できないと不自然と呼ぶ。
売ってもらっているのに買ってやっていると言う。
金払ってるんだから。
金。
現代至上主義における人間の精神の行き着く先なんて、よく考えれば容易に考えられることでした。
金という価値基準で物事を数値化していけば、人間の精神だっておかしな方向へ行くのは目に見えていた。
やれ不平等だ、やれ損した、傲慢が支配して金に対する気持ちも腐りきるのはわかりきっていたこと。
自然というのはふぞろい。
我々は自然なものを受け入れられなくなってきている。
異常なものを正常と思い出して、本来の正常なものがなにかもわからなくなってきている。
末期でしょう。
[0回]
PR
http://asakaze.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/%E3%81%B5%E3%81%9E%E3%82%8D%E3%81%84%E3%81%AE%E6%9E%97%E6%AA%8E%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%80%EF%BD%9E%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E6%9E%97%E6%AA%8E%E3%81%AE%E8%A9%B1%E3%81%A7%E3%81%99%EF%BD%9Eふぞろいの林檎たち ~本当の林檎の話です~