ついついイベントが多くて出かけてしまいそうになるけれど、京都に来たのは仕事をするためでもあり、いつまでも報酬が金銭ではなく現物支給ではお金がなくなってしまうので、しっかり仕事をしたいと思います。
今年は我慢する。
来年こそはイベントに顔を出しながら色々回りたいと思います。
さて、いろいろ気になることが出てきているのですが、観光地といえど、祭りが多すぎるということに気がつきます。
ほとんど毎日のようにあり、イベントの無い日はないのではないかというくらい。
それだけ神社仏閣の力が強いということなのですね。
昨日、京都府立大学にて「京都力を探る」と題しまして今年から三年かけて公開講座をするみたいなのですけれど、「平安京の仏教ー最澄・空海とその後継者たち」という講演を聞きに行きました。
所謂京都における仏教の発展がいかにしてなったか、という内容だったのですが、私の中で印象に残ったのは「徳一が最澄に論争で負けてから仏教の流れが変わった」という点と、最後の質問の中であった答えなのですが「何故民間信仰があったにも関わらず仏教などが力を持つようになったか」という問いに対し「体系化がしっかりなされたからではないか」ということでした。
宗教が体系化するには「テキスト」が絶対必須であり、「テキスト」は「呪術」でもあります。
昔は山側に死体を捨てていた、という話も聞き、中央と周辺との違いが目に浮かぶようでした。
当然昔は今のように食糧事情や経済が安定していたわけではなく、天災飢饉火災などで街が壊滅的な状態にもなっただろうし、いつ崩れるかわからない生活に大きな恐怖や不安を持ち、何か大きな力に頼りたくなる気持ちもわかるような気がいたします。
栄枯盛衰の中には「憎しみ」も多分に含まれます。
栄耀栄華の裏には、その分「憎しみ」の力があるのではないかと私などは強く感じるわけです。
その民の「憎しみ」の力をいかになだめるかが政治の力であり、宗教の力であるか、を感じます。
そこに「テキスト」がいかなる役割を持ったのか、個人的には気になるところです。
人の心における「恐怖」というものは「憎しみ」を時として凌駕するものが多々ありますが、ふと先日の別の講演の中で出てきた「感染呪術」と「類感呪術」を思い出しまして、至る所に触れて作用するとされているものがあったり、お守りやその代わりとなるものがたくさんあり、京の街は「呪術の街」なのだなと祭りの多さなども見るとしみじみと感じ出すわけです。
漠然と感じているものを理論体系化し、組織化すると、それは大きな力を持ちますが、漠然としたままでは形にしたものよりはるかに弱い。
現代においても社会は「テキスト」に縛られております。
現代は「法」という「呪術」が機能しておりますね。
その「法」には漠然とした「恐怖」や「憎しみ」の力が働いて新しい法ができたりするのですから、現代は完全に理論体系化された「呪術の世界」と言えます。
さて、「祭りとは何ぞや」という疑問がぽっと浮かぶのですが、それを調べるのは来年になりそうです。
ひとまず昨日は三条通を歩き錦小路で鱧串と出汁巻き卵を食べまして、京の味を少しだけ楽しみました。
あと今月はぼちぼちと講演に出かけたりするくらいで、ほとんど引きこもり生活です。
[0回]
PR
http://asakaze.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%99%E3%81%8E%E3%82%8B%E4%BA%AC%E9%83%BDイベントがありすぎる京都