いいアイディアが浮かんで、また懲りずに送ろうと思うのだけれどね、新人賞。
でも今回のは「意味を解体した小説」なので、文章というよりも詩の羅列。
それが小説になるのか、という疑問はあるけれど、試してみるのも悪くないと思っている。
ただ、審査員のハイコンテクストなコメントを見ると、反吐が出てきそうなほど気持ち悪くなる。
どうして作家とは、人に対する具体的なコメントを示さなければならないところで、他人に非常にわかりにくい表現を使うのだろうかと、いつも疑問に思う。
だから私は理路整然とした文芸評論家が審査員になるのならまだしも、オタクを極めた「作家」なる存在が審査員の半数以上を占めて他人の審査をするのは、本当に愚かなことだと思っているし、実際半分近くの作家のコメントが非常に分かりにくく、一般人に理解しがたく、独善的で、お前の文章の発表の場でもないのに厚顔無恥な「論評」をツラツラと書き連ね、他人を煙にまくような幕引きで終わらせる、あの滑稽さとくだらなさが大嫌いなのである。
ああいうハイコンテクストで否定されても、やたら自分の心の中が散らかされた感がするだけで、何の足しにもならんといつも感じるのである。
思えば、こういうのは答えのないテストのようなもので、そういえば、私はテストが大嫌いだった。
元々、メンタル攻撃に対するバリアはもう使い尽くしたようなところがあり、諸肌さらしているようなものなので、やわらか戦車なのである。
豆腐の角に頭ぶつけて負傷するレベルなのです。
そして、否定されることが、死ぬほど恐ろしいということに、改めて気がついた。
私の心の底には「認めてほしい」という気持ちが強く、つまりは自尊心が否定されてきた分、それをどこかで強烈に補おうと飢えているのだと思う。
だから、頑張ったものを否定される衝撃を味わうよりも、最初から頑張らないことで、あえて「悲惨な結果になって当たり前。言われた通りの人間だ」と自分を納得させる方が安心できた。
このような心理作用を「ゴーレム効果」と言うらしい。
反発心を持って、何クソと頑張れる人も中にはいるが、私は「お前はダメなやつだ」と言われれば、なんとなくそんなような気がしてきて「ああ、お前の言う通りになってやるよ」と意固地になってダメなところに走るようなタイプだった、というか今もそうなのかもしれない。
それで、そんな状態でどんどん追い込まれて、逃げ場のようなものがなくなってくると、今度はもう進むしかないなと開き直り、今は少しずつ精神的な安定も取り戻して一歩ずつ踏み出しているところだ。
きっと将来この手の日記を見れば「ああ、こいつなんてくだらないことを書いているのだろう」と思うのだろうが、その気持ちこそ大事であって、やっぱりもしそう思ってしまうなら、この日記も文章も今しか書けないものとして記録しておこうと思うのだ。
淡々と何事もなく人生を過ごせている人にとってコンプレックスを強烈に抱えている人の気持ちはわからない。
それこそ白髪が増えるぐらい具合が悪くなるくらい悩んでいるものなのである。
そうしたコンプレックスが私には強くあり、何かと比べられて卑下されるのが、もうトラウマレベルで嫌なのだ。
もし大きなものをつかもうとしたとき、当然この手のコンプレックスは克服していかなければいけない。
昨日までダメだったのなら、今日少しでもよくならなければならない。
そうしなければ同じ器の中、同じ部屋の中でぐるぐる回っているのと同じことだ。
人間が人間らしくあるのは考える葦、現代風に言うなら常にアップデートされるソフトウェアだからだ。
昨日の自分よりも少しだけよくなっていく。
そんな風にして人生は自分を克服していくものだ。
さて、3月にやることは決まったけれど、動悸が止まらない。
コンプレックスってこういう自分が意識してない勝手な作用が体に出てくるので怖い。
しかし克服しなければならないものなのだ。
頑張るかな。
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