※プリミティブ (primitive)とは、「原始的」「素朴な」「幼稚な」という意味。
cobaというアコーディオン奏者がいる。
この人の名前は知らなくても、CMなどで音楽が多用されているのでテレビを見ている人なら一度はどこかで聞いていることと思う。
アコーディオンそのものは1822年ベルリンのフリードリッヒ・ブッシュマンに開発されたというのだから、まだ楽器としては200年もたっていないということになる。
cobaはアコーディオンの魅力を「胸に直接響く」「恋人を抱くように」と表現している。
当時マイナーだったアコーディオンの知名度を上げるために、二者択一の周囲の押し付けの人生にも反発しイタリアに渡ったがすべてが衝撃的だったという。
日本でもイタリア人のイメージと言えば自由奔放な感じがするが、イタリアの文化自体が良くも悪くも「プリミティブ」であるとcobaは表現している。
つまり欲望に忠実に、人生は一度きりだから楽しもう、やりたいことをやろう。
それだけだといさかいが起きるはずなのに、どうしてなのだろうと観察してみると他者をリスペクト(尊敬)しているという。
だからうまく社会が循環している。
ただ、欲望に従っている分、それなりの悪い意味でのハプニングもイタリアではたくさん起きるから、全員を善人だと思っていたら痛い目にあうわけだけど。
cobaの音楽を聴いていると、アコーディオンという楽器だからというわけでもなく、非常に自然で人間的な哀愁が感じられることがある。
それは彼がイタリアで見てきたものと、日本人としての感覚が混ざり合い、うまく人間の喜怒哀楽を表現した音楽性に現れているのだと思っている。
イタリアにはまだいったことがないが、よく経済的にも比較されることがある。
例えばGDPははるかに日本よりも悪いのに自殺率が低いのはなぜか、など。
こういう視点にも日本人の悪さが露骨に出ているから嫌悪感を覚えるが、芸術関係に携わると、今の現代日本人の生活観の中に芸術を楽しもうという開かれた気持ちが非常に小さいということがわかる。
その理由は諸説紛々だし話せば長くなるので割愛するが、一言でいうならば芸術を楽しむにも精神的な余裕が必要であり、その精神的な余裕を現代日本人は持ち合わせづらい、ということだ。
これは実際に携わると肌身でわかる。やる側としては「いいわけ」に過ぎないので、そんな人にも届くようなものを作っていくのがプロ根性なわけだけれど。
ただ、表現者として言わせていただくならば人間として精神的に自立するということは他者を認めるというところにあるのではないだろうか。
その付き合い方はまた個々人別々としても。
こうしたインターネット空間でも様々な人たちと交流し、互いに持っていたプランが現実化することはよくある話になってきて、非常に便利だが不愉快に思うことも多々ある。
特にこのような場所においては言葉の価値はほとんど低く、言葉そのものに価値を持たせるには背景に多大な努力を必要とするが、人はおかしなもので「よくお前が言える」というようなことを言っても、その人間にそれらしい環境があれば周囲は信じてしまうという不思議な作用がある。
しかしそういうものはそれこそ「プリミティブ」なものであって、その人間が創りだした一種の事実ではあるのだから、責めたり恨んだりする前によく観察してみると面白いことが多々見つかる。
ひとつは他人を通して自分自身の醜さをはっきりと垣間見ているということと、その「プリミティブ」さ、愚かさこそ人間活動の本質なのではないかということだ。
自分すらも結局は「プリミティブ」なものの上に「大人を装って」いるにすぎないのだから、互いの「プリミティブ」さが完全に合致するということはまずない。
だからこそ喜怒哀楽があるのだとも感じる。
現代日本ではサービスが細分化されてきていて、自分と直接的にマッチングする商品と出会える。
だから逆に自分の趣味や好みのフィールドを極限化できるというメリットもあるが、それゆえに逆にデメリットにもなる。
安定し、反復した日常を送る中で、いつの間にか自らが他者を拒絶するような環境を作り出している。
かつて白洲次郎という人間が「日本人にはプリンシプルがない」と言った。
プリンシプルとは「原理、原則、根本、主義、信条」などと訳されるが日本語訳が難しいと言われる。
私なりに解釈をすれば「自己を確立するための骨格がない」というところだろうか。
確かに「プリミティブ」なものであふれ、それを大事にできる個々人の環境は非常に整えられてきているが、はたしてそれを認め合うだけの「自己」が我々にはしっかり備わっているのだろうかと、私自身も日々自問自答する日々だ。
自分の「プリミティブ」さが肥大化する環境は他者が懸命に作り上げている現代社会のサービスにおいて、「己」のみを追求するというのは滑稽ではないか。
そこを現代日本人は大きく勘違いをしていると考えるのだ。
しかしこのことを言葉で言えば角が立つ。
なぜ過不足なく暮らしているのに、余計に疲れるような精神作業をしなくてはいけないのか、と反発を買う。
そんな「プリミティブ」な感情にこそ、「プリミティブな楽器」とアコーディオンを言った奏者cobaの音楽やお近くの美術館などに足を運んで、ちょっとした美術芸術に触れてみることをお勧めしたいわけだ。
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