三か月ほど前だろうか、知り合いに連れられてバーに行った。
初対面のマスターと少しだけ話が盛り上がったが一週間後に首つり自殺をした。
独り身で、愛犬が死んで間もなくのことだった。
知り合いはとてもショックを受けて2か月も仕事を休んでいた。
仕事をまた再会したとのことで会いに行くと元気そうだった。
「四十九日が過ぎて少し落ち着いた」
といつものように微笑んでいた。
たった1度しか会ったことがなかった、マスターの作るマティーニが美味しかった。
マティーニの美味しい店はハズレがない。
さらにはオリーブまでも美味しいお店は気が利いてる。
もう飲めなくなったのはとても残念に思った。
人にはいつか死が訪れる。
自分でケリをつけるも、自然に死ぬも、事故や病気で死ぬも、いつかは終わりが来る。
知り合いの周囲には変わった人が沢山いる。
だから僕のことも変わった仲間として気にかけてくれて時折連絡をくれる。
「あさちゃんは死なないでね」
と言われたが、気持ちはブレブレだ。
何故バーのマスターが自殺をしたのか誰も理由がわからなかった。
誰にも理由を話さずに死んでいったから、マスターを知る誰もが死を信じられなかった。
影をも見せなかったということは、自分が会った時も普通のように見えたのだろう。
フッとこの世界から消えてしまった。
例え理由があったからといって、きっと誰も死ぬことには納得しなかっただろう。
どうして何も話してくれなかったのか、という気持ちが周囲を支配していたに違いない。
僕は自殺はあまり反対しない派だ。
そういう選択肢があってもいいと思っている。
死ぬには色々な理由があるから、こうだからとは言えないけれど、他人は「生きろ」なんて言ったって何も保証しないじゃないか。
「生きていくこと」の何も保証しない。
例えば苦しみがあったとして、所詮他人事じゃないか。
挙句の果てには「甘ったれてる」とか「自分が悪い」とか個人の何かに原因を見つけて責め立てる。
それでも人は助けられたり助けたりしている。
気が付かない間にもしている。
当然傷つきもしているし、ぬくもりに触れたりもする。
人は死に向かっている。
けれど無気力という状態や、ふと生きることを諦めたりする気持ちになることもある。
深いところを覗いてしまって、暗闇の中に心を沈ませることもある。
生きることは思い通りにはならない。
それでも生きている人はいる。
だけど死ぬ人もいる。
生きている場所が違うのだとも思ったりする。
いずれは、誰もが遅かれ早かれ死を迎える。
「生」に人間は意味をつけたがるから「死」にも意味を見つけたがるのだろうと思うけれど、「死」は人にとっては意味も何もない。
ただそこにあるという現象の一つに過ぎないのだと思っている。
そう。
だからこんなにもまとまりのない文章になっている。
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http://asakaze.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%81%AC人は死ぬ