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あさかぜさんは見た

日記

11/17

Mon

2008

国語って何のためにここまで勉強しなくてはいけないの?

子供の中でこのような疑問を持つ人がいるらしい。
母国語を積極的に学ぼうとする意識が希薄なのは、もはや国民として末期状態だと言ってもいいけれど、私なら以下のように示します。

「言葉は記号ではないから」

言葉は道具ではありますが、記号ではありません。
もしあなたが自分の気持ちを他人に伝えようとしたとき、数学のように記号どおりには明確には伝わりません。
常に感覚から言葉が扱われている限りは「自分と他人との間にズレ」が必ず生じます。
そのズレはお互いの感覚の差なのです。

国語教師がそのようなことに気がつかないのも問題ですが、もし私が彼らに(教師を含めて)問題を出すとしたら、「幸福とは何か論じてください」と出します。
そして、その「幸福」がたったひとつの答えとして導き出されなかったときに、「どうして同じ『幸福』という言葉を扱っているのに、これだけ違うのか考えてください」と問題を出します。
そこで発見するのが「本当の国語教育」だと思っています。
これが言語の特性であるということを教えない国語教育そのものには大変疑問を感じざるを得ないのですが、国語教師がそれを明確に言えないのは、やはり他の数学や社会や理科などと同レベル(必ず答えが導き出されるもの)と捉えているからではないでしょうか。
ですから、この国語教育と同じ感覚で、日本語の充分わかる人に日本語を使った時、「自分と同じ感覚が伝わったはずだ」という意識を持たせるのは大変危険なのです。
なぜなら争いは常にズレから生じるからです。

言語というのは、「感覚」を根底にしています。
ですから言葉を使わなければいけないのです。
言葉を使わなければならない理由はなんでしょう。
この社会は多用な価値観で動き、多様な価値観を許容して生きているからです。
学生が、感覚として「普通に日常で接しているのだから国語は必要ない」と考えるのは、感覚として「自分が現在受け入れられないようなものもこの世界には存在している」というのを知らないからに他なりません。

つまり、言語を使用するということは「感覚の交換」とも置き換えられます。
ですから言語はコミュニケーションの道具として使われます。
正しい感覚を知るには、多くの自分と違う感覚と交流する必要があります。
その相手の感覚、ズレ、時として異種のものを知り、自分が正しくあるためにも、正常な言語感覚は必要になるわけです。

あなたは他人の「幸福」というものを、正確に論じられますか?
この文字は、たった二つの記号でしか表されていませんよ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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