いつでも子どもたちは大人が作った罰を被る。
それは時として子どもたちに責任がなくても罰を被る。
原罪も、これから犯す罪も、みな誰かが被る。
わざと傷つけることはないのだ。
子どもだって、叩かなくたって傷ついていくさ。
こんな時代だから。
汚い物だって見せ付ける必要もない。
教えてやるだけでいい。
いずれ見るのだから。
私は人を馬鹿にして笑いを取るお笑いに対して反吐が出る思いを抱く。
人を傷つけて人気を取る。
人を貶めて金を取る。同じことだ。
私は生きて来た中で多くの命を奪ったし殺した。
そしてこれからもそうなるだろう。
そういう命たちに対して創作する段階になっても、なお不必要に傷つけようとは思わない。
命を思って、命を抱く。
そうすることで、せめてもの贖罪をと思っている。
命を抱く。
それはおもしろおかしく命を扱うこととは分けなければならない。
いつでも命に対する敬意の念を忘れてはいけない。
誰を思うのか。
「国民」「視聴者」「読者」「お客様」
そういう単語を出す人間は偽善者か嘘つきだろう。
そんなものはどこにもいやしない。
誰が嘘つきにさせたのか、誰が罪をきせているのか。
不特定多数を表す言葉の中に、思いはない。
泣いているあの子、苦しんでいるおばさん、お金に困っている人、ドラマが好きな人、弱い人しかいじめない人、誰か、もっと限定された人がそこにいる。
仏を彫って、何をしたい。
もし、彫りあがったら、誰に一番に見てほしいのか、誰に一番届けたいのか、その人の笑顔や、その人の先を考えているのか。
向き合うというのは、届けたあとの誰かの気持ちを思うことだ。
危うく見失いそうになった。
このように危うくなることが何度もある。
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