22日にやる宴会の味の設計図。
もちろん全部オリジナルじゃなくて基本的なものを借りながら自分なりにアレンジしているけれど、現場で働いていてよくわかることがあるのが、設計図通りいかない時が多々ある。
そりゃ最前線で玉ぶち込まれてるんだから、自分のペースでとかそういうの関係ない。
戦場だ。
その前に玉の道筋を制御するという作業は必要なのだけれど、それでもイレギュラーは沢山ある。
理屈道理にいく戦場はない。
メインが用意できない時に、一体何を用意するのか。
代替って知識だけじゃなくて実戦知識における感覚の積み重ねで培われるものだから、特にメインが欠けるという状態の時(まずないけど、万が一そうなった場合)に最大限の料理を出せるのが本当の実力なのだと思った。
「料理をする」と言う時、一人でやっているならまだしも、誰かの手を借りるなら当然的確にレシピを伝える必要がある。
レシピが秘匿ならば、メニューを伝えたうえで手順を事細かく伝えて部下が必ず自分の意思通りに動くように設計図を部下にイメージさせる必要がある。
「料理をする=シェフ」のことなのだけれど、ゴールから逆算して伝えなければいけない。
今この画像には調味料などの配分がない。そして時間もない。自分の頭だけで完成している設計図だ。
つまり何をどれだけ混ぜなければいけないか、どれだけ火を入れなければいけないか、どれだけの時間を要するのか、そしてどの順番で出すのか。
「料理」をしていて最近よく考えることがある。
それを味わった人の「出口」というやつだ。
「出口」って何さ。
「食べてくれた人が、ここを出た後のシナリオ」
これは僕がやっている創作にも繋がってきて大いに意識しているところだ。
自分で主催すると特に「出口」をコントロールできる。
どのような理由でここに来てくれているのかハッキリわかるからだ。
だから来てくれている理由を汲んで最大限に尊重しながら、来てくれた人の未来をも考えて作る。
このようなことが可能になってきた。
当然全て目論見が当たるわけじゃない。
それでも「次もやりましょう」と声をかけていただいて続いている。
そして僕の試みは、さてどこでまとめようか、そしてどこまで広げようか。という調整も見つつ広がっている。
当然その先の未来が作れるように「料理」している。
ここまで可能性や現実を広げるためには「設計図」が必要で「何ができるのか」を示せて「その後何が起こるのか」の設計図を超えた自分の道筋が、まず安定的に通っていっているということだ。
声かけという、カッコイイ言い方すればプレゼンテーションもある。付き合いもある。僕が犠牲になって吹っ掛けている部分もある。
そして僕は宴会の値段が安すぎると指摘を受けて値上げをした。
こういう現象さえも起きる。最初の値段設定が本当に安すぎたのもあるけど。
人の気持ちが僕に向いてきた。
このような様々なことは現場でコツコツやってないと本当にわからないことだった。
創作という現場でも発想を変えて直で生の声が入るようにすると、もう「料理」の世界と何一つ変わらないことがわかってくる。
常に自分を生の声に晒して勝負していく。
とにかく心臓が潰れそうなほどに毎回緊張する。
この現場にいると、戦っているのか、そうじゃないのか、その人間の区別くらいはわかるようになってきた。
発信直後に反応が来る。
辛いけどわかりやすすぎるから、勉強になる。
もう、何が正しいかは僕よりも若い人たちが常に教えてくれる。
「料理」とは「美味しいもの」を出せばいい。
「美味しいもの」とは現場で戦っている人間しかわからない。
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