「精神」というものの形成は、どうしても家庭環境が強く作用する。
全部が全部「自分の努力で」というわけにはいかないのだ。
その証拠に他人に色々言う人間ほどわりと意固地なのだから。
僕は、ふと思うことがある。
活字が嫌いだったのに小説のネタのことをずっと考えていて、そこからできあがるものを日々夢想し、日々に年齢に体の疲れに潰されそうになっている。
隔たった考え方をし、他人と違う思考をし、他者とは共有できない世界をもって人と接している。
もうちょっと普通の人になりたかった。
何も知らず、社会に何の疑問も持たず、規範から外れず、真面目に仕事をすることによって特に可もなく不可もなく、誰からの期待も恨みもなく、平凡に暮らしていく。
そうだな、まるでJOJOの吉良吉影のように。
自分が生きていていいかどうか未だに迷う。
迷う時がある。
精神は上下を繰り返して一定であることがない。
死にたいと思うこともあれば、希望が十分にあると思う時がある。
不思議なものだ。
何故こんな精神を持ったのだろう。
何故こんなに生きることに迷わなければいけないのだろう。
そういうのは、若いころで終わらせて二度と迷わないものなんじゃないのか。
孔子は四十で惑わずと言ったそうだが、惑うばかりさ。
だがもう少し猶予はあるのだけれど。
知っている。
どうするか、ではなく、何をやるか。
限られた時間を使って何をやるか。
ただこれだけでしかない。
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