リストカッターの知り合いがいる。
常習犯で、下手をすれば死ぬ恐れもあるほどの激しい出血を伴う切り方をする。
何年か前から連絡を取り合っているので、事情はわかる。
私は否定する気がない。
肯定する気もない。
あるがまま、その人の気持ちを受け止めたい。
「理解してもらえない」
と嘆いていた。
「理屈で説明できない衝動を、他人に理解してもらおうとするほうがおかしい」
と俺は言った。
自分も最初の「お飾り程度」のことはやっていたから、どのような過程を経てそうなるのかがなんとなくわかる。
それが精神的な「トリガー」を持ち、「フラッシュバック」を伴い、精神の杭となり突き刺さっているのが、自分はモノを描く手前、なんとなく推測できる。
「フラッシュバック」や「トリガー」を持たない人間は、ここには一切口出しできない。
これは精神が強い弱いの問題ではない。
「トリガー」とは、何かがきっかけで引き金が引かれ、一気に混乱し精神がぶっ飛ぶ、その「きっかけ」に近いものをさす。
これは「言葉」であったり「シチュエーション」であったり、「行動」であったりする。
たいていは「言葉」の場合が多い。
他人はこの事情がわからないから、まるで腫れ物に触るような感じで接する。
冗談も言えないような息苦しさを感じながらその人物と接する。
しかし私から言わせてみれば、品性をきちんとわきまえていれば他人を傷つけることはまずない。
なぜなら、ほとんど他人に対して否定語を使うことがないからだ。
見下すような仕草もしない。
他者に対する品性とは、他者という未知の可能性に対して尊敬することだと思っている。
「生きづらい」
と言っていた。
通常は前向きに物事を考える人でそれほど多くない「笑い療法士」の資格を持っている人だ。
生きづらいことは、自分も感じている。
特にこの日本は、閉鎖的な気質が強すぎて、何かにくくられ、閉じ込められていくような息苦しさを特に感じる。
我々の意識が、他者を追い詰めている。
それは自分でもよくわかる。
「血が止まらない。吹き出ている。どうしよう」
と言っていたが、電話じゃどうしようもない。
風呂に入っていたらしく、下着すらも血で汚れるので着ることをためらっていた。
変なやつ。
「あのさ、裸で救急車で運ばれていくのがいやだったら、着るか、観念するかのどっちかにしなさい」
「裸で運ばれるのは嫌。でも着たら服が血で汚れる」
「いいから!どっちがいいのよ!裸見られるのと、服汚れるのと!」
しぶしぶ服は着たようだった。
変なやり取りだなと思いながら、話を聞く。
貧血になると息が苦しくなると言っていた。
血は酸素を運んでいるので、致死量ギリギリまで出血すればそうもなるだろうなと思った。
「あのさ、電話中に倒れられても困るんだけど。最後に話していたの俺で、警察とかから電話きても俺答えられないよ?」
と言ってやった。
当然なんだけどさ。
ちょっぴりドキドキしてた。
本当に倒れられても困る。
だって住所知らないもの。
衝動であろうとその人間が選ばされたことであり、選んだことだ。
出血多量で死んだとしても、それは本人が徐々に体に刷り込んでいったものだ。
電話を切るとき「ありがとう」と言っていた。
そういうところは、律儀だ。
わかるんだ。
この人の世を生きるには、繊細な心では生き抜けない。
汚さを身につけるしかないし、自分が汚いことにすら気がつかない人間は人生を一生幸福に過ごせる。
携帯小説を書かないかと私にとある組織から誘いが来た。
断った。
彼ら高校生たちを相手にすれば確かに金になる。
金になることを量産すればいい。
自由に金を使えるようになる。
自分は人にどれだけ大事なものを残せるかに作品への思いが宿る。
忘れ去られるような一過性のものを描いて、彼らから金を巻き上げて、どんな幸福な未来があるというのか。
以下が、コメントになる。
携帯小説は彼ら独自の文化で、私がそこに介入しなければならない理由がない。
やりたいようにやらせてあげればいいじゃないか。
大人が子どもに媚びるのは愚行だと思うし、彼らを飯の種にして金を巻き上げるのは品性がない。
我々が彼らに残してあげたり、教えてあげられることは何?
そんなものを考えもしないで、彼らの流れに反して、彼らを金づると見て、大人の理屈を振りかざしたり、彼らに取り入ろうとする?
もし先生だったとしたら、その先生教師続けていられないだろうね。
彼ら高校生は未熟で当たり前。
でも未熟なうちに祭り上げたら、本当に人間ダメになると思う。
未熟さを指摘するのもいけないし、大人が彼らの等身大に迫ることは難しい。
金を稼ぎたいだけなら、ただ彼らを騙せばそれで済む話だろ。
大人は汚いんだからさ。
彼らの世代に何か残せるものがあるのならば、一生懸命描く。
でも今は理由がない。
大義名分がない。
彼らが描く夢の世界で楽しめるのなら、それでいいじゃないか。
大人が参加してありえないおとぎ話を描く必要はない。
不幸を見せ付けるようにして描いて同情を引くこともない。
そういう話は下卑すぎている。
現実はもっと辛くてしょっぱい。
うまくいくことがむしろ少ない。
彼らもわかっているから夢を見たがる。
でも彼らの世代に必要なのは、夢を見させることじゃない。
一緒に悩んでくれる身近な大人だと思う。
おとぎ話を提供する大人じゃない。
世界はおとぎ話では成り立ってはいないのだ。
でも、希望は捨てないで欲しい。
私はそのために、作家でいたいんだ。
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