吐き気がする。
そりゃ飲みたくもなるよ。
「説教は聞きたくない」だとさ。
女の人は説教がましいことを望まない。
自分の思いが発散されればいい。
男は解決策を見出そうとする。
両者の脳の違いが喧嘩を生む。
だけどさ、ひとつだけ言わせてくれ。
成長しない人間は同じ過ちを二度も三度も犯す。
なあ、高いツボに全財産使って、生活費が足りないと嘆く男が、
再度高給布団に全財産使って、もう破産するしかないと言う男を、
お前たちは同情するのか?
見ていて腹が立たないのか?
これと似たようなことが「恋愛」において繰り返されていたら、
たちまち弁解じみた言葉がたくさん出てくるのかい。
教えてくれ。
女性たちよ。
追記:
私は人間には痛みが必要だと思う。
痛みを知らない人間は、必ず暴力の加減を知らない。
自己中心的という感覚は、自分の感覚に固執しすぎて、それを捨てられない人間のことを言う。
極端だが、他人に尽くしすぎて損をしてしまう人間も、実は自己中心的と言える。
なぜならば、結局「自分の傷みの感覚だけ」で、他者を判断し、痛み入るからだ。
両極の中心はどこにあるかということを言葉で定義することは難しい。
しかし、「自分の感覚をぶっ壊してくれる思いやりに溢れた何か」の存在はとても重要で、何百何千の人間よりも、そのたった一人が啓示を与え、人生の転機をもたらすことは多々ある。
しかしこのチャンスさえも、本人の判断基準が隔たっていれば過ぎ去ってしまう。
それは「愚か」ではない。
客観的に見て、人生を長い目で見れば、結果的に「愚か」だと判断できるかもしれないが、それは常に「神の目」であって、「人間の目」ではない。
我々は常に主観的に生きている。
自分が正しいと思っている。
あいつは間違っていると思うこともたくさんある。
でも我々は、それでも他人への優しさを忘れてはいけないのではないのか?
最後の救いを残しておいて、常に破滅か救いかを選ばせる心の余裕がなくてはいけない、と私は思っている。
大事なのは常に「自分を律すること」だ。
「他人を律すること」ではない。
いつも自分勝手なことを言っているが、
今日は最後にひとつ自分勝手なことを言わせてくれ。
酔っ払いのたわごとだ。
「なぜ、人は悲しみを与え合わなければならないのか」
わかっているけれど、思わず立ち止まってしまう。
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