芥川、夏目、川端、三島、おじゃる丸の作者の犬丸りん。
少なくともプロ根性がある芸術家気質の人間は、常に「完成」に向けてひた走る。
それは逆に言えば「死へと飛び込む行為」にも置き換わる。
この中でより多く似ているのは、芥川タイプの人が多いのではないだろうか。
芥川と犬丸りん。
自分・・・のレベルで申し訳ないのだけれど、書いていて、「これではいけない。こんなものじゃ表現できない」そう思う。
例えば完璧に満足のいくものができたとして、次にそのレベルを下回るものに満足できるのだろうか。
できるはずがない。
妥協できなければ死ぬしかない。
なぜって?
普通はここで疑問に思うだろう。
これは芸術家がぶち当たる最大の壁だと私は思う。
自分の作り出すものすべてに不満が残る。
しかし、常に以前よりもよいものを作り出さなければ応援してくれている人以前に自分が満足しない。
責任感があるのなら、応援してくれる人にも申し訳ない。
もちろんクレームもくる。
自分が心血注いだものに「おもしろくない」と言われるのは、己のすべてを否定されること以上にショックを受ける。
それ以前に、自分で充分わかりすぎるほどにわかっている。
血と肉と骨から作り出したものだからだ。
そして、芸術は永遠に完結しない。
この「完結に向けて後戻りできない永遠の苦悩を続ける」のが芸術家で、その芸術が「完結しない」という矛盾を抱えている。
芸術とは、芸術で本気で生きるとは、常に「狂気と隣り合わせ」なのだ。
人間には覗いてはいけない深淵がある。
普通の人間は見ることなく一生を終わるのだけれど、作家は「人間」そのものをテーマにするものだから、見えたものをとことん、それが何か知ろうとする。
その過程で人間の深淵部に入る。
その深淵部に到達するとある一種の矛盾を見ることになる。
これはロジックの矛盾なのだが、生物という観点から見れば、あって当然のものだ。
そして、作家は知る。
「人間とは動物の中でも特殊で・・・な生き物だ」と。
私が「・・・」と書いているのは、まだ知らないからであって、しばらく覗く勇気もないからだ。
でも、ここに当てはまる言葉を知ってしまったときは、私も死ぬかもしれない。
仕事に追い詰められ、そして芸術が扱う「人間そのもの」にも追い詰められる。
己の扱うものに恐怖を一度でも覚えたことがないのなら、その人間は「趣味」で書いているだけだ。
それが「プロじゃない」とは言わないが、写真家なら「撮ること」、小説家なら「書くこと」、画家なら「描くこと」などなど、自分の扱うものに恐怖を覚えないのならば、芸術家とは言えない。
犬丸りんさんのニュースはネットでちらりと見た程度だったが、「死んだ」というよりも、「殺されたか」という印象のほうが強かった。
私も芸術家の端くれというか、端くれにもなっていないけれど、気持ちはわかる気がした。
「仕事で悩む」とは、普通のサラリーマンが悩むレベルで例えるならば、「会社の運命を左右する商談を常に引き受ける」ことになる。
商談が失敗すれば会社は倒産する運命。
そのくらいのプレッシャーと悩みだと思ってもらえればわかるだろうか。
芥川は己に殺された。
夏目は人間の闇に殺された。
川端は人間の死に深く関与しすぎた。
三島は愚鈍な民衆に理解されなかった。
犬丸りんは・・・何に殺されたのか。
芸術家は、常に感覚的に死へ向かう。
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