じいちゃんの葬式は密葬という形で行ったので、身内だけの葬式でほかは誰も呼ばないし知らせない形となったのだけれど、それはそれでよかったと思う。
これでたくさんいたらもっと疲れていた。
夜線香をたやさないように身内で交代で立てていくのだけれど、その間に親戚の人たちと話をしたりした。
たいした話もしてないけれど、子供の近況や今何しているなのこうしているなの、あとは雑談だった。
遺体を見て、棺おけを見て、「みんなこういう年になったんだよな」とか「あと俺の兄弟も俺入れて二人」とか「今月は葬式何件めだ」とか、昔よくあっていた変わらないように見える親戚の人たちも高齢といえる年齢になっていた。
小説を書いていきたいのですと親戚の息子に話すと、「ビジネスには評論はいらないから、自分がどうしていきたいのかが大事。例え小説でもそれを問われると思う」と言われ、「今のニュース番組のような卑怯な手法ではいかないです」とは言っておいた。
作家としても戦わない作家は軟弱すぎていかんだろうな、とは思っていたけれどお互い話していたのは、何が悪いかと言うと「あれが悪い」おしまい、「これはどうなの?」おしまい、というのは完全な思考力の停止であって、一番安全なところでただ罵り合っているだけの悪辣さに言っている本人が気がつかないのが今の日本の言論のレベルそのものを下げているわけで、壊した後をどうするのかを真剣に考える人間がもっと増えれば下がりもしないものをやりっぱなしにするところがいけないのだと、私自身そう思うわけです。
行動することは完全なリスクであります。
そのリスクを避けて、既存の範ちゅうにとどまることは、残念ながら退化しかありません。
それは型を崩せということではなく、型を守りつつ徐々に変えていかなきゃいけないところを勇気を持って変えるということであります。
よいものはすぐにはできません。
100の失敗があってよいものも悪いものの避け方も学べるのです。
わかってはいるのだけれどね、頭では。
生きているものが新しい時代を作っていく。
目の前の遺体を見て思う。
生きるとはなんだろう。
未だ生を知らず。
骨になったじいちゃんを見てなおさら思った。
「これが現実」
親戚がふともらす。
現実。
自分は現実すらもわかってないや。
情けないことよ。
そういえば、今の火葬場って空港みたいに綺麗ね。
やや緩やかなアーチ型に各火葬する部屋が並んであって、館内にはアナウンスが流れる。
30だか40だかある焼き場がすべて埋まるくらい混雑していたけれど、なんかこりゃー近代式ですげぇやと周囲を見ながら思ってしまった。
じゅうたんもふかふかだし、待合室も綺麗だし、マッサージチェアついているし、売店も食堂も待合ロビーもあるし、喫煙室あるし、待合室の家名が電光式だし、火葬室の名前も電光式だし、全然陰気くさくない。
ああ、棺おけが・・・ああ、なんと言っていいのか、電動式で、手で押すとらくらく進むぞみたいな機械があって、二人で持ってせっせせっせとは運ばない。
いや、とにかく金がかかっているのはよくわかった。
骨になって、壷に入って、供養されて、その人間の人生は終わる。
繋いだものはなんなのか、繋いでいくものは生きているものに託される。
俺がその答えを出していけばいい。
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