ふと書いたものがプライベートな問題にまで突っ込む内容だということで、読んだ方からNGをもらった。
個人的にはよいできだと思ったのだけれど、NGをもらったのなら消去するしかない。
特に消すことにためらいはなく、またいいのができる瞬間を自分の中で待つといいと、いつも感じている。
書き終わった瞬間から欠点は見えている。
ただ、「きちんと妄想で書かないといけないよ」と言われた時には、正直憤りを覚えた。
以前、人の意見を聞いて、自分の作品がぐちゃぐちゃになった経験を何度かした。
私は作品を作る時、誰かの迷惑になるとか、誰かを傷つけるとか、そんなことは感情の中から一切排除することにした。
当然でしょう。「作品」を歪ませて、いいものなんてできないんだから。
ただ純粋に「作品」に集中していく。
小説家は心底ヤクザな職業だ。
ずっとこれは覚悟している。
自分を売り、他人を売り、そして利益を得る。
売文家になるんだったら話は別だ。
だけど人間を真正面から見つめて、それをきちんと描くのなら、当然避けては通れない道がある。
「他人に心地いいだけのものは絶対に描けなくなる」
その代償として、自分への誹謗中傷、刺されてもしょうがない。そういうものを、きっちりと覚悟している。
魂を売り渡す行為なんだ。
自分の身の安全を守っていて芸術家なんてできないよ。
そのことは「人間を描く」小説家として文章を書いていてよく学んだことです。
「カポーティ」という映画があった。
フィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー男優賞をもらったカポーティの「冷血」という小説を題材にしたもの。
ある死刑囚を巡る物語で、ノンフィクション小説というジャンルを確立した。
映画の中でとても凄みを帯びていたのが、カポーティ自身が死刑囚へ取材をするために様々な手を差し伸べるのにも関わらず、裁判の延長をノイローゼになるくらいに悩むシーン。
最後の死刑執行間際のフィリップのアドリブによる涙を流すシーン。
「死んでくれなければ、作品が完結しない」
しかし長く接してきて、まるで「友」かのような感情もある。
これ以後、カポーティは長編小説は一切発表せず、アルコールと薬物に溺れていった。
詳しく知りたい人は小説の「冷血」と映画の「カポーティ」を見るといい。
この映画は小説家としての永遠の課題を示しているけれど、結局は行き着くところまで行くと魂の問題に関わってくる。
ある意味、芸における魂の問題は常に病気のように付きまとってくるから、どこで落ち着かせるかを定めておかないといけない。
生きようとして、それをするんじゃない。
魂を捧げるために、それを深めていく。
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