電気を消せば、部屋は見えなくなるから、私、ほんの一瞬だけは忘れられると感じてた。
長いようで短かった数ヶ月。彼の汗の匂いがシーツにまだ染みこんでいた。
大学生活最後の数ヶ月、就職も決まり、単位も取りきり、後は卒論さえ出せば卒業への条件はすべて整うという状況から始めた同棲。
二年生で付き合いだし、付き合い三年目を迎えずに卒業とともに別れる。
「お見合い結婚? なにそれ。今時そんなのあるんだ」
「私のとこ、村で、まだそういうの残ってるんだ」
ずっと都会育ちの彼にはピンと来ていないようだったけれど、私にとっては家族親族と絶縁するか否かの問題が重くのしかかっていて、彼の気分は結婚とかそういう気分じゃなくて、学生のままで。
部屋にはまだ二日前に使ったコンドームの空箱が床に落ちていて、彼がこの部屋で読んでいたランボーやボードレールの詩集や歴史小説などが散らばっていた。
「詩なんて読んでいる人初めて見た。それ面白いの?」
「わかんないから面白いんだよ。色々考えてさ、わからないなりに想像するのが楽しいの」
「私のことは?」
私のポツリとつぶやいた言葉に私を少しだけ見つめ、それからまた本を読みだしながらぼやくように言った。
「だって、動いてるじゃん。これって止まってるだろ。動いているものは日々変化しているからわからなくなるじゃんか」
それ以上は彼に何かを言うことは出来なかった。
私たちは互いに好きだった、と思う。
彼が居なくなってからの二日間は枕に顔を押し付けて匂いを嗅いだり、天井を見つめていたりした。
食べ物も水もろくに口に入れていないのにトイレにだけは行きたくなって、止まらない時間と自分のしていることに虚しささえも覚えて、冷蔵庫から取り出した残りの缶チューハイを一本開けては、彼と飲み干したテーブルの上の空き缶に一つ加える。
彼との思い出に浸っているわけではなく、ただ鼻の奥に未だ香ってくる彼の体臭を脳裏に吸い込んでは吐き出そうとする。
その繰り返しだった。
私は彼以外の女になる。
もしかしたら奪い去ってくれるのではないかとも一瞬考えたけれど、霞のように消え去った。
今の私たちでは、どうしようもできないくらい覚悟ができなかった。ただそれだけの話なのだ。
彼は社会人となって都心部に残り、私は田舎で誰かの妻となる。
彼が残していった服や下着や本や男性用の小物は、一つ残さず捨て去ることになっている。
[2回]
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