東京レポート。
都心部となると心臓を巡る血流のごとく人がひしめき流れている。
各地域はそれぞれ内臓の器官のように特化した機能性を出している。
原宿・渋谷、新宿、東京・銀座・有楽町、秋葉原など。
特に秋葉原などは趣味に没頭する人たちの目がギラめいている。
しかし、電車に乗っていると、中には疲れ果て、瞳から輝きを失い、曇っているものさえもいる。
心が日常に慣れてしまって、それ以上の向上心や、外界に対しての美しさの探究心を持ちづらいためと思われる。
絶望の曇りではなく、はるかに深い諦観のようなものが宿るからであろう。
精神が回復する間もなく、疲弊していくからであろう。
ちょっとした住宅街のど真ん中で子猫と遭遇した。
子猫は警戒心たっぷりにこちらを見、近づこうとすると逃げ出した。
実は秋葉原で室内に案内されて絵を見せられたのだが、値段が100万前後していた。
版画で棟方志功の作品がそれぐらいだから、結構ふっかけているといえばふっかけているのだが、説明されている人を見ると、人の良さそうな学生っぽい人たちばかりだった。
店員は絵には関係ない話、相手を褒めたり、おだてたりすることに重点を置いていた。
その時、「ああ、なるほど」と頭をよぎったのだが、私なら絵に興味が無くても学生くらいで一・二年働いて稼げるくらいの値段をつけ、ローンを組ませ、月々5万くらいの支払いで買わせる。
絵は繊細なので返品のとき傷がついたとか言えば返品できなくなるし、あらゆる理由を付けて返品できないようにはできる。
実際やられたわけではないが、歩いていても変な誘いが来たりする。
東京に住む人は、常に警戒心があるため、見知らぬ人を信用していないし、実際構っている時間もない。
これだけの人が居ながら、皆が他人なのだ。
あらゆる価値観があり、その価値観の共通するところで人は繋がりあっている。
東京において他人とは、私が住宅地で見た子猫に近い印象を受けた。
流動性の高い人が、各地域に流れる理由は、そこに金脈があるかということに限られる。
自分の感覚を刺激するもの、流行の最先端、話題性。
地域はひとつの購買型の劇場と言っていい。
あらかじめ仕掛けがセットされ、宣伝され、選んでいるつもりが、どこか選ばれ、流され、そして埋もれる。
主体性や個性を強く持ち、自我を強く認識していなければ、すぐに自分を見失い、大きな人の流れに流されるだけの人生になる危険性をはらんでいる。
人の多さゆえに、少々変人が居てもさほど気にならないし、困っている人が居ても面倒をさけて関わらないようにする。
先ほど述べたように他人を警戒しているし、モノのようにそこに「ある」と認識した方が都合がいい。
優しい人ほど危険に見舞われやすくなる。
あらゆるものが消費を前提に動いているが、利益を維持させるためのアイディアすら「消費」されていく。
この地域で生まれるほとんどすべてのものが「利益」に還元されるための「生産」であり、「消費」されるための「生産」である。
よって、利益をむさぼる為に、利益となるものは次々と模倣され、改良され、それゆえに短い間隔で次々と新しいものを作っていかなければ自らが明日の職を失う危険性があるほどに移り変わりが早い。
人間さえも消耗品として扱っても、なんら罪悪感は生まれないだろうし、人的資源も消費される事前提で成立っているところも無いわけではない。
そのためか、時折人が酷く義務的で、人工的である。
つまり、心から微笑んでない、楽しいと思っていない、しょうがないからやっている、といった具合だ。
終電間際の電車の中で疲れ果て、もう一歩も動けないような顔をして立ちながらも眠ろうとする人が多い。
この都会において身体と精神を回復させるということが、いかに重要な位地を占めるのかということはよくわかる。
当たり前の事かもしれないが、都心部は周囲の供給があってはじめて成立っている。
特に生活に直結するものに関しては危ういほどにもろさを浮き彫りにさせている。
水、食料、エネルギー・・・もしこれらの生きていくのに欠かせないものが、なんらかの影響で都心まで運べなくなったとき、いったいどうするのだろうという恐怖と危惧感が襲った。
人が多すぎるゆえの欠点もあるし、公園で過ごす若いホームレスの姿も気になった。
歌舞伎町にあるゴールデン街を歩き、薄暗く狭い路地にある、肩が触れ合うほどの狭さの飲み屋を次々と見ながら、「国民の生活をよくする」なんて政治ポスターを見ると、思わず苦笑したくなる気持ちになる。
国がネットカフェ難民にお金を支給するという案をどこかで見たが、都立でも国立でも寮つきの職業訓練校を作った方が、よっぽど底上げになる気がした。
つまり、人材派遣サービスをしてしまおうというもの。
足りないものを補うという発想の中に、育てるという発想ではなく、物質的に欠如したものを埋めるというのは、あまりにも機械的過ぎて、紙面でしか物事を考えていないのがよく分かる。
東京で暮らすと、植物がどのようにして育って行くのかもわからなくなってしまうのではと思った。
人もまた似ている。
人を育てるということは、土壌があり、システムがあり、循環があるということだ。
職業訓練校があり、寮があり、寝る場所と食事の安心と、職への意欲が高まり、失敗してもまた挑戦できるものがなければいけない。
使い捨ての発想からの転換をいかにするかが、課題であろう。
肥大化したエネルギーをどう縮小し、コンパクトかつエコロジーにまとめるか、これも政治の役割でしょう。
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