忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/26

Tue

2024

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

11/07

Fri

2008

昔なら「作家」と言えば、それなりに人間と真剣に向き合っている人が多かった。ゆえに命を落としたり、発狂しかけたり、常人とは異なる理屈を抱えてしまったりしたものだけれど、現代における「作家」となると、まったく意味合いが違ってきて、意味すらもあいまいになる。
「ネット小説」で検索すれば五千万件もヒットする。その中の十分の一が書き手のページで、さらにその十分の一が作者だとすると、いったい「作家」はどれほどいるのか。
「作家であること」は病名だ、とあるメモ帳に書き残してしまったけれど、この表現は名詞とは受け取れないので、病気と書けばよかったなと一瞬思ったけれど、病気となるとまた違ってくる。
作家として人間を見つめて突き詰め芸術たらんとさせようとすること、が病気なのであって、その根底にある狂気が宿ってこそ完成する精神のように思える。
「作家であらんとすること」とはまさに「キチガイ」の代名詞でもよいように思える。
酔わなきゃ書けない。とことん現世に酔い果てる。この地は、ああ楽園である。なんて思ってなきゃ、こんな陰湿な生活はできないだろう。
幸いにして現代にはたくさんのストレス発散場所があるから、かろうじておかしくならずに済むが、多大な精神力や労力が必要なのに、出さなければ何もしてないと思われてしまう。
侮蔑されるか尊敬されるか。
一万秒の努力で一秒の栄光。

拍手[0回]

PR

10/28

Tue

2008

人間失格と太宰治

太宰治の文学は、正常な人間が読むものではない。
彼の精神の土台には、自己破壊ではなく、限りなく卑屈で低俗な精神が呪いのようにはびこっている。
その卑屈すぎる精神が自己破壊を生んでいるのだから、健全な精神の持ち主が、その文学性を否定するのは当たり前なのだ。
人間を見つめようとして、その精神を見つめ、人間が何でできているかということを突き詰め、それへの模索・答えへの道程で犯され、自己破壊的になっていくことは、純粋に文学性を見つめようとする人間にはありがちだし、日本の歴史においても数ある例が物語っている。
人間を純粋に受け入れようとするものは人間そのものに殺される。
人間失格は絶望を描いたような作品にとられるが、あれはアンチテーゼであって、いわゆるカタルシスにも似た、希望を描いた作品であると私は捉えている。
なぜ、最後にあの言葉があるのかと言うことを考えれば、やはり救いを描いたものであると捉えざるを得ない。
それが当時の太宰治にとって、死者のための救いだったのか、生きゆく者への救いであったのかは、もはや当時の彼しか知るよしもないが、彼の精神構造から考察するに、いわゆる精神病に近いような人間が、「表現をする」という行為は、自分の中にたまりこんでいるものを吐き出すという行為であるから、自分のための救いであったように考えられる。

実は人間失格を書こうと思っている。
自分の人生経験から、それを描くには充分なことを体験してきたと思っている。
そして私の中にも卑屈で女々しい精神をひけらかし、他人の悪意を受けようと耐えられる精神構造も出来上がってきている。
太宰治が「人間失格」で作家としての宿命をほぼ全うし、それを体現したというのなら、私は「人間失格」から始めようと思う。
私にはそれが似合っているし、このまごまごした状況に突破口を開けるとしたら、その強烈な一撃にかけるしかないと思う。
自分を考察し、自分の歴史にIFを加えることは、悲しみと苦しみをともなう作業ではあるけれど、いつかやらなければならないことだと思っていたから、ここでやらなければ、何も始まっていかないと思っている。

拍手[0回]

10/25

Sat

2008

自分には執念が必要だとつくづく感じた。
執念を超えるものを手に入れて、それを自分の燃料にしないといけない。
自分には、だらけていく日常は必要ない。
毎日単調な作業も必要ない。
強い自己破壊と自己創造を欲している。
別人になるような、強烈なものを。
そうでなければ、また元に戻ってしまう。
そうでなければ、また死んでしまう。
そうでなければ、這い上がる気持ちすら生まれてこない。

拍手[0回]

10/19

Sun

2008

東京まできてみました

東京レポート。

都心部となると心臓を巡る血流のごとく人がひしめき流れている。
各地域はそれぞれ内臓の器官のように特化した機能性を出している。
原宿・渋谷、新宿、東京・銀座・有楽町、秋葉原など。
特に秋葉原などは趣味に没頭する人たちの目がギラめいている。
しかし、電車に乗っていると、中には疲れ果て、瞳から輝きを失い、曇っているものさえもいる。
心が日常に慣れてしまって、それ以上の向上心や、外界に対しての美しさの探究心を持ちづらいためと思われる。
絶望の曇りではなく、はるかに深い諦観のようなものが宿るからであろう。
精神が回復する間もなく、疲弊していくからであろう。

ちょっとした住宅街のど真ん中で子猫と遭遇した。
子猫は警戒心たっぷりにこちらを見、近づこうとすると逃げ出した。
実は秋葉原で室内に案内されて絵を見せられたのだが、値段が100万前後していた。
版画で棟方志功の作品がそれぐらいだから、結構ふっかけているといえばふっかけているのだが、説明されている人を見ると、人の良さそうな学生っぽい人たちばかりだった。
店員は絵には関係ない話、相手を褒めたり、おだてたりすることに重点を置いていた。
その時、「ああ、なるほど」と頭をよぎったのだが、私なら絵に興味が無くても学生くらいで一・二年働いて稼げるくらいの値段をつけ、ローンを組ませ、月々5万くらいの支払いで買わせる。
絵は繊細なので返品のとき傷がついたとか言えば返品できなくなるし、あらゆる理由を付けて返品できないようにはできる。
実際やられたわけではないが、歩いていても変な誘いが来たりする。
東京に住む人は、常に警戒心があるため、見知らぬ人を信用していないし、実際構っている時間もない。
これだけの人が居ながら、皆が他人なのだ。
あらゆる価値観があり、その価値観の共通するところで人は繋がりあっている。
東京において他人とは、私が住宅地で見た子猫に近い印象を受けた。

流動性の高い人が、各地域に流れる理由は、そこに金脈があるかということに限られる。
自分の感覚を刺激するもの、流行の最先端、話題性。
地域はひとつの購買型の劇場と言っていい。
あらかじめ仕掛けがセットされ、宣伝され、選んでいるつもりが、どこか選ばれ、流され、そして埋もれる。
主体性や個性を強く持ち、自我を強く認識していなければ、すぐに自分を見失い、大きな人の流れに流されるだけの人生になる危険性をはらんでいる。

人の多さゆえに、少々変人が居てもさほど気にならないし、困っている人が居ても面倒をさけて関わらないようにする。
先ほど述べたように他人を警戒しているし、モノのようにそこに「ある」と認識した方が都合がいい。
優しい人ほど危険に見舞われやすくなる。

あらゆるものが消費を前提に動いているが、利益を維持させるためのアイディアすら「消費」されていく。
この地域で生まれるほとんどすべてのものが「利益」に還元されるための「生産」であり、「消費」されるための「生産」である。
よって、利益をむさぼる為に、利益となるものは次々と模倣され、改良され、それゆえに短い間隔で次々と新しいものを作っていかなければ自らが明日の職を失う危険性があるほどに移り変わりが早い。
人間さえも消耗品として扱っても、なんら罪悪感は生まれないだろうし、人的資源も消費される事前提で成立っているところも無いわけではない。
そのためか、時折人が酷く義務的で、人工的である。
つまり、心から微笑んでない、楽しいと思っていない、しょうがないからやっている、といった具合だ。

終電間際の電車の中で疲れ果て、もう一歩も動けないような顔をして立ちながらも眠ろうとする人が多い。
この都会において身体と精神を回復させるということが、いかに重要な位地を占めるのかということはよくわかる。

当たり前の事かもしれないが、都心部は周囲の供給があってはじめて成立っている。
特に生活に直結するものに関しては危ういほどにもろさを浮き彫りにさせている。
水、食料、エネルギー・・・もしこれらの生きていくのに欠かせないものが、なんらかの影響で都心まで運べなくなったとき、いったいどうするのだろうという恐怖と危惧感が襲った。
人が多すぎるゆえの欠点もあるし、公園で過ごす若いホームレスの姿も気になった。

歌舞伎町にあるゴールデン街を歩き、薄暗く狭い路地にある、肩が触れ合うほどの狭さの飲み屋を次々と見ながら、「国民の生活をよくする」なんて政治ポスターを見ると、思わず苦笑したくなる気持ちになる。
国がネットカフェ難民にお金を支給するという案をどこかで見たが、都立でも国立でも寮つきの職業訓練校を作った方が、よっぽど底上げになる気がした。
つまり、人材派遣サービスをしてしまおうというもの。
足りないものを補うという発想の中に、育てるという発想ではなく、物質的に欠如したものを埋めるというのは、あまりにも機械的過ぎて、紙面でしか物事を考えていないのがよく分かる。
東京で暮らすと、植物がどのようにして育って行くのかもわからなくなってしまうのではと思った。
人もまた似ている。
人を育てるということは、土壌があり、システムがあり、循環があるということだ。
職業訓練校があり、寮があり、寝る場所と食事の安心と、職への意欲が高まり、失敗してもまた挑戦できるものがなければいけない。

使い捨ての発想からの転換をいかにするかが、課題であろう。
肥大化したエネルギーをどう縮小し、コンパクトかつエコロジーにまとめるか、これも政治の役割でしょう。

拍手[0回]

10/10

Fri

2008

心が不純物で浸されると、鈍い自覚症状がくる。
泥の中でもがくような気持ち。
純粋であることとは、程遠く、様々な邪気が混ざりこんでいる。
純粋な憎しみ、純粋な喜び、純粋な眼差し、全てに初めて出会ってそこに全力で感情をぶつける子供のような気持ちを取り戻したい。

自分の心が濁っているから、作り出すものも自然体じゃない。
自分でガチガチだと思うし、自然物ではなく、意図的に作り出した人工物的な不自然さを感じる。

お金のこととか、売れる=人数で換算する、始める前から腐った価値観が自分の中に渦巻いていて、相変わらず他人を見下しそうになったりとか、浮いた気持ちが地面から離れていって、しっかり生きようとすることからどんどん外れて、もうどうにかなってしまいそう。

心の中の邪気をしっかりと祓う方法もしっかり考えて実行していかないと、どこまでも落ちていくように人間はできている。

拍手[0回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]