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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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12/28

Sat

2013

前向きな言葉の数々は胡散臭いものだけれどね

世には様々な商品があふれ、様々な売り文句があり、様々なメリットを前面に押し出している。
その商品に触れないことが、さも損であるかのように、どこもかしこも素晴らしいもので満ち溢れている・・・かのように聞こえる。
だが実際購入してみれば思ったのと違ったり、効果が充分に得られなかったりする。
商品でさえこんな風になるのだから、人生の売り文句となればさらに怪しくなる。
この世界は、幸いにも文字を伝って古今東西の知恵を受け継ぐことができるようになっている。
我々が人間として生きてきて、最も幸運であるのは言葉なのかもしれない。
その反面、人生そのものは理不尽さそのものであるから、そのシンプルで辛らつで当たり前のことを受け入れられなければ、あらゆる積極性を目にしては腐り果てる。
そして、さもわかったかのように語り始める。

人類は、結構人類の心理的癖のようなものを解き明かしていたりする。
そして近年に至っては、資本主義社会などの高度な経済社会においての成功法則は、既にまとめられていたり、古人が残してきた数多くの金言が残っていて、それさえ実行できれば成功に近づけるようになっている。
ただし、実行できればの話しだし、確実に成功するのではなく、あくまで成功に近づけるということだ。
最後の最後には様々な運の要素や人間関係、己の総合的人間力が関わってくるため、成功法則を実行できていると思っても、うまくはいかないことがある。

さて、世の中には様々な前向きな言葉がある。
私は底辺から這いずってきた人間なので、前向きな言葉が腐った心にどれだけの劇薬になるのかを知っている。
実行できないことへの卑下。
素直に信じられず疑心暗鬼になり余計に心がささくれ立つ。
そして、中には夢を餌にして金を稼ぐ輩もいる。
成功することを望んでいるのなら出世払いにすればいいものを、いい金を取って講習を開いたりする。
行動を起こすには、メンタル的なものが非常に大きな要素になる。
かの大リーグ選手イチローも言っていた。
体の不調を心で直すことはできるが、心の不調を体で直すことはできない、と。
それだけ、心を作り上げることは簡単な事ではないし、たいてい、変わらなければならないという危機感に見舞われることなく、日常は平穏に暮らせるものだ。
だからこそ現状が満ち足りていると、このままでいいのかな、という気分になる。
だが、いつかは困難に直面する。
残念ながら後に選ぶか先に選ぶかの問題だ。
しかしメンタル面で、いつ準備ができるのかというのはタイミングの要素もあるが大きい。
早い人もいるし、遅い人もいる。
いつまでも気がつかない人もいる。
準備を整える必要もなく、このままでよいと思ってしまう人だっている。
色々な人がいるが、前向きな言葉を信じて、もし崩れるようなことがあったり、自他ともに何かを作るよりもはるかに壊す方が多くなってしまったのなら、もうさっさと前向きな言葉や自分へのこだわりは捨て去って、現状の自分をよく観察するべきだと思う。

前向きな言葉を実行に移すにはメンタルな土台が必須になる。
これができていなかったらいくらでも崩れてくるし、他人にさえよくない影響を及ぼす。
この精神土台を作ることは、本当に時間がかかる。
雷に打たれたみたいに、ハイ次の日から! なんてできるのは稀だ。
少しずつ少しずつ自分の負の感情や消極性に打ち克っていかないといけない。
そして大字なのは人を見下さないこと。
これやっちゃうときりがないし、足が動かなくなる。
ここでいいのだという安心感さえ生まれる。
上を見ればたくさんの素晴らしい人たちがいる。
自分が足元にも及ばない人たちが世の中にはごまんといる。
そういう人間たちと友達になるにはどうすればよいのか。

もしあなたの周囲にはろくな大人がいないのなら、それはあなたの人間性がろくでもないから、そういう人しか知り合えないのです。
そこまでの意識を持てて、ようやく危機感が持てそうな気がする。
自分の場合は前向きな言葉を宣言して周囲に聞かせ、自分が引けない環境を作り上げてしまうことからはじめるのだけれどね。
まあ、方法は色々なので、精神土台の作り方は自分で見つけてください。
胡散臭さを見抜けるようになってくると、人生楽しくなってくる。

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12/22

Sun

2013

結果を焦る気持ち

今も意識すればムクムクと欲が積乱雲のように膨れ上がってくるが、自制心を外せば何もしていないのに結果を求めようとする。
それこそ極端に言えば宝くじを買ってもいないのに億単位の金が手に入ればいいと思うような気持ちだ。

私は声の団体を作って、小説の世界の売れない人も、演劇や声優の世界で売れない人も、似たような感情を抱くのだなとつくづく感じさせられた。
小説の世界で初めて出会った人種。
たいした実力もないのに主観や想いや思想を独自に練りこみすぎて、山月記の李徴くずれのような人間に数多く出会った。
(※わからない人は青空文庫にて)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html
例としては山月記は適切ではないが、人は自分が努力した結果をダイレクトに求めようとする。
だが、独善的過ぎてすでに外界に通じるような社交性を持った技術が乏しい人間は数多くいる。
学生生活はすべてテストで評価されたし、それ以外の素質はスポーツの評価を除いて、ほぼ人生には関係ないレベルで評価される。
(人間性や趣味や性格などの類)
社会に出たってたいした変化はないし、結果が出なければ、結果を出せなければすぐ無能扱いされる。
その癖がつきすぎてしまう。
そういう当たり前の世界を拒絶しても、僕らは世界を変えられないし、僕らの世界は変わらない。

さて、行動、即結果という意識は誰しもあると思う。
経験の乏しい人間は、あらゆる行動の先にはイレギュラーなど存在しないくらいの勢いで、行動と結果は直接繋がるのだという意識を少なからず持っている。
あらゆるメディアやお話や本は、努力すればなんとかなるということを謳いあげている。
実に、うそぶきすぎていて罪な事だと思う。
彼らは他人の夢を煽って金を稼いでいる。
夢に向かう間に存在する困難を、享受するための理不尽さへの耐性は学校では教えてくれない。

私は怠惰だから、人の気持ちの緩みや弱さやコンプレックスが、体よりも口を数多く動かそうとすることをしっている。
そして語彙の貧困なものは、表現する手段を簡略化して、すべての感情を暴力的な言葉に昇華したり、調べもしない裏づけすらもない想像で物事を断定的に、かつ安易に吐き捨てて知ったような気持ちになることをしっている。
私も油断すれば、そうなるから。

幸いにも私の知り合いの中には、私よりもはるかに優れた人がいて、私などは足元のも及ばないレベルの人たちがいる。
その人たちの知識や立ち振る舞いを見て、なんと自分は愚かなのだろう、この程度で結果を求めるなど夢を見るにもほどがあるとも思う。
だが一方で、彼らが気がついていないうまい方法が存在するのではないかとも思う。
彼らの道を歩むことはできないし、彼らのやり方をそっくりそのまま真似たとしても思考が停止しすぎている。

昔は鼻高々で周囲を馬鹿にしていたが、散々全力で作ったものが否定され、鼻っ柱など陥没するほどに折られまくり、自分の限界も知らされた。
そうしてようやく等身大の自分を見ることができたが、昔は自分を盛りすぎて考えていたし、まるで観客がリングの選手に口を出すような偉さで自分を考えていた。
それは大きな間違いだった。

芸の世界はお金になりにくい世界だと言っていい。
お金にするための努力がどれだけ必要なのか、儲けている連中ばかり見ている人は気がつかないし、消費者ともなれば、こちらの内情が見えないだけに相当辛らつだ。
そして、直接的な評価など、相当のレベルにならないとまずされないし、そして、思ったような対価は得ることはできない。

努力は、人の縁が、人の輪があってこそ初めて生かされると最近気がついたが、努力は報われるという言葉が独り歩きすしぎて、それこそテストを受けるような感覚で直接努力の成果が手に入るのだと思い込んでいる人が多いことに気がついた。
実はその中の一人だったのでよくわかるのだけれどね。
人をないがしろにするような人間は、自分と感覚が合わない人間を排除するような人間は、実力があってもチャンスを逃す。
そんな当たり前のことにすら、充分教えられない。
自分は教えられなかった。

そして漠然と結果というものは「不特定多数の人に評価されること」と考えているのだろうが、実は身近な縁を大事にすることから始まる。
自分の望むものがあったとして、それを繋いでいくのは、すべて他人の力だ。
現代社会はシステム化されすぎていて、システムを「常識」として受け入れているので、その他力の力になかなか気がつくことができないが、どう取り繕っても根っこはそこにある。
心を売らず体を売らず魂を捨てず、人の声をよく聞き、人の良さをよく褒め、自分の長所で人に与えることのできる人間になれれば、結果はおのずとついてくる。
そしてその結果を繋いでいくものは、今自分を応援してくれている人たちと、そしてもっと上の次元にいる、足元にも及ばない人たちだ。

より高次元の実力者たちの支援を得るには、まず腰を落ち着け、自分よりも優れた人間を心から認めることから始まっていきます。
そうすれば、そう簡単に結果を焦るような気持ちは消える。
自分の立ち振る舞いのみならず、考え方そのものも、「井の中の蛙」であることを常に意識することで、多くの人に教えを乞うことが出来るであろう。
すると縁と知恵と生き方をも学ぶことができるのだから、結果に繋がる大きな布石を敷くことができるのだ。


追伸:私信ですが、ソフィーヤさんありがとう。

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12/17

Tue

2013

「それは生きるために必要なの?」

私たちは文明社会の中に生きていて、生きるために必要なことのほとんどは文明を維持するために仕事をして対価を稼ぐというのがほとんどすべての人に当てはまると思う。
ホワイトやブルーと言われ区別される人たちだが、ちょっとその分類では区別しにくい文化活動に属して仕事をしている人たちがいる。
目に見えない技術や成果というものが文化の中に含まれることが多いが、通常知識がなければ、この目に見えないことを日常生活の中でどれだけ享受しているのか理解しがたい。
私は目に見えづらい価値を作っている人間の立場なので、「それは生きるために必要なことなのですか?」と問われれば「今直接稼ぐために必要ではないと仰るのなら、今使っている調味料や加工食品などはすべて目に見えない技術や文化の結晶なので、今すぐ破棄なされることをお勧めします。なぜ私がこういわなければならないのか理解できなければご自分であなたが特に享受している国の文化活動の歴史をお調べください」と申し上げるでしょう。
我々の生活の中に深く浸透しすぎて気がつかない文化と言うものはたくさんあり、それは当初同じように「何故生きるのにそのようなものが必要なのか」と当時もその人を見て思っただろう。
文化と言うのは民族の結晶たるものであり、文化を失う恐ろしさと、文化を説明できない屈辱を日本人は日常生活していて味わうことなどないし、特にそんな歴史もなかったのだから、そのような日常使用しているものを根こそぎ無視した発言もできる。
さて、文化として成り立っているものは結果として残ったものであるから、当然現在進行形で残るか残らないかもわからないような代物に対しては、理解しがたいというよりも、まったく発想として追いつけないだろう。
何故そんな無駄な事をするのか。
成果すらも上がらないものに価値などあるのか。
ほとんど全ての人は結果として出来上がったもののみを価値として、その途中過程で培われてきたものなど一切無視する。
だからこそ、嫌味の一つも言いたくなる。
これは問題の差し替えではなく、文化というものが一度途切れてしまった時、それを復活させるのは非常に困難だということを一度として考えないし、数多くの継承の中で優れたもののみが生き残っていくという、自然界でも当然起こっていることが文化活動の中でもまったく同じように機能していることを知らない。
だが、優れたものが生き残るにしても、極端に言えば誰もそれをやらなければ残りもしないし、優れたアイディアが他のアイディアを刺激して、思いもよらないところで間接的な相互関係を築いていることは、アイディア職にいないものには想像しにくい。
それは発想が貧困などというのではなく、触れたことも考えたことも一度もないのだからわからないのだ。
以前、ある短歌がどれだけ優れているかということを有名大学大学院卒の子に説明したことがあるが、まったく響いていないようだった。
わからない人にはわからないし、興味を持っていなければただの言葉程度にしかならない。
だが私は決して人間活動は生きるためのみに集中しているのではなくて、他者から見れば多くの無駄だと思えるようなものを楽しみとして享受しており、そして自分の趣味として他者には理解しがたいものを愛でている。
それをひっくるめて文化活動と言う。
しかし上述したが結果が出ていない途中のものに関しては当然批判の対称になる。
そんな厳しい現実は受け入れていかなければいけないし、それに耐え切れないほどの精神や情熱ならば止めればいい。
だが私は少しでもアピールしたい。
菌類も含め、私たちの文化は目に見えないものを日常生活の中に取り込んでいる。
あたかも無駄だと思われてきたものへの挑戦と偶然の産物が生き残り、多様で豊かなな文化を形成していく種となる。
もし文明の奴隷となり、趣味も何もなく「生」のみの機能性だけを追求したいのなら言うだけ言えばいい。
それはロボットと何が違うのかと逆に問いたい。

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12/03

Tue

2013

人の趣味なんてそう簡単に否定できるもんじゃない

頭じゃわかってても、物凄い気になることはある。
自分は東京に行った時、物凄い違和感を感じた。
新宿なんて、人が人扱いされていない。
物扱いされている。
なんとなく、そんな冷たさを札幌で育った自分でさえ感じるほどだ。
彼らは干渉しない代わりに、自分の立場を確保する。
なるべくお互い迷惑かけないように、という配慮なのだそうだ。
東京人が言っていた。

ネットで情報がたくさん発信できるようになって、どうでもいいことばかり上澄みに溢れるようになった。
本当にネットというものを活用するには、自らが深い知識と見識を手に入れ、生涯研鑽し続けなければいけない。
さもなければ、怠惰さに流され、どうでもいい情報ばかり信じ、人に対してもわかったようなことばかり、偉そうになって言い続ける。
検索のキーワードを打つにも自らの知識がものを言うし、内容が信義かどうかも深い洞察力が要求される。

情報を発信していれば、どうでもいい情報だってある。
特に趣味なんてものがそうだ。
その人個人の気の紛らわし方や、趣味嗜好なんてものは、人それぞれで全員が一致するわけじゃない。
「あんた、それは浅いね」なーんて、思い思われるんだから。
味覚なんて、その最も代表格たるものだが、どうしてか「おいしいものは人もおいしいと感じる」だなんて錯覚を起こしている。
人の味覚は自分とは違うと感じたのは、人に料理を振舞った時によく経験したんだが、やはり「体感しているもの」は各々違っている。

ある小説でカティーサークが出てきた。
登場人物のお気に入りで、わざわざ名前を出すってことはお気に入りなんだろうが、私はあの独特の酸味が飲みなれたウィスキーとはちょっと離れていて苦手だ。
ホットミルクコーヒーに入れるにも、豆を選ばなきゃいけないし、どうせならホワイトホースあたりが無難かなと思って、冬になった今、たまには、それも飲もうかなと考えている。

札幌もナナカマドが白い冠を被ってシンデレラになり、赤く膨らんで地に落ちた。
鳥がその餌を食えば、もう、本格的な冬だ。
私たちは、あまり意識することはないが、地域性とか、まあ、環境ってのがあったりする。
そんな中で人の趣味や嗜好や思想なんてものが培われるのだが、いいもんばかりが培われるわけじゃない。
当然、「あんたちょっとそれどうなの」、なーんて気になっちゃうことだってある。
私たちの情報はだいたいは「東京発信」で、なんだか、自分たちが慣れ親しんでいる都会の基準が、どうやら社会生活を送るための基準であったり、はたまた「おいしいもの」「まずいもの」であったりもする。
そして、日常の行動基準までもに物を言う人間がたまに現れるのだが、どうせダメだとしても、代償を払うのはそいつだし、放っておけばいいのに、老婆心からならよいのだが、「自分が気に入らないから」という理由で物を言う人がいる。
「自分が気に入らないから」と「親切心」を混同している人は圧倒的に多い。
それって、どうなの、なんて思っちゃう。
人にはそれぞれ趣味があるし嗜好があるし行動哲学がある。
それがあまりにも独善過ぎたら社会に出た時、代償を払うのはその人だ。
よほどダメじゃない限り、放っておくべきが吉だと思ったりする。
だって、わかりあえないんだもの。
経験していないことを交換し合うのは、本当に難しい。
人はどこに一番エネルギーを注げるかなんて、まったく違ってくる。
私は今団体を作って20人ぐらいの人間と接しながら、少しずつ長所を引き出そうとしているけど、こういうのって、最初から何かの基準に当てはめちゃ、その人を見失うし難しいものだと思う。
最初は技術じゃない。
すべてはメンタルなんだと痛感させられる。
趣味なんてものも、その人が大好きだから続けられるわけであって、もう本当に嫌いになったら止めてる。
大好きだから技術が高まる。
これ、性格にも、まったく同じことが言える。
自分がその性格で人に接するのが本当に嫌になったら、ちょっと、変えようなんて思っちゃうのね。
自己嫌悪にはまり込む人がいるけど、もうちょっと自分がカメラに映されている、というか、実際映しちゃってみればいいんだけど、つまらないことこの上ない。
そんな視点で見れない人って、極端に言えば、その性格も自己愛に支えられて続けている。

ひとりひとりは違う。

そんな当たり前のことを、人は自らの体感的に受け入れられないことがある。
見知らぬ人にちょっと言いたくなっちゃう気持ちだって生まれる。
ホント我ら狭い井戸の中にいて、そこから大海に望むリスクなんてかけようとせずに、どうにか楽なほうへと流れようとする。
その典型的な例が言論だ。
あれは軽々しく展開できるけど、尤もらしいことを言いながら、物凄く陳腐なことを言っていることが多々ある。
賛同者を得ると、自らの言葉が、さも正しいかのように感じるかもしれないが、それは、ただ馬鹿と同調しただけかもしれない。
そんな人だって、大衆の力に支えられてしまえば、そう簡単に否定できなくなる。

実質的な権力を持っている、その人が直接関わっている、渦中のキーマン、行動と結果がダイレクトに直結する、などなど、そういう因果関係が裏付けられなければ、たいていは「蚊帳の外のやぶ蚊」程度の人間なのだけど、我らはどうにも、そんな「上辺の人」にも、とても干渉したがる。
いやいや、そんなものが気になるのは自分だけかもしれないね。
なにせ、人の趣味は人の趣味だと言っておきながら、こんな記事を書いていて、集団の意図的な言論の圧力が「社会の声」だなんて言っている人間に疑問を持っている人間だからね。

たださ、最後いきなりぶっ飛んじゃうけど、ダメなものって結構万国共通。
他の国に行った人の話聞いていると「あれ? そこ日本じゃないよね? 日本人じゃないよね?」なんて確認したくなるような親近感を得るダメっぷりを聞いたりする。
その力がどこに行くかってのは、「歴史」に委ねられるんだろうけど、古今東西、どうやらちょっと調べただけでも事情は一緒のようだ。
なんせ、紀元前から我らの上辺の主張はそう変わったりはしないのだから。
だからさ、他人を変えようとする前に、自分が変わって力を持てばいいんだ。
野心を持つ人間ならば、本当に人にものを言いたい人間ならば、人の趣味を作り出せる人間になれるのがベストなんじゃない? なーんて思うわけ。

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11/16

Sat

2013

他人のゴミと個人の宝

たまに更新されていない、あるサイトを見にいく。
もう5年もそのサイトは更新されていない。
FLASH動画が前にあったが、それもネットでは見られなくなった。
残っているのはFLASHに残された音楽プレイヤー。
唯一それだけを楽しむことができる。
たまに思い出して短いループサウンドを聞きにいく。
昔見た記憶を思い起こして、その音楽が流れたシーンを脳内で再生する。
かつてきちんとした建物だった廃墟に思いを馳せるように。
結局それは売れなかったから、後が続かなかった。
厳しい現実を前にして残った残骸のようなものが、それだけれど、運よく当時動画を見ることができた。
チャチと言えばチャチかもしれないけれど、音楽と簡単なFLASHアニメだけで表現され、台詞は一切なかった。
その手法がとても好きで、何度も繰り返して見た。
多くの人の心には響かなかったかもしれないが、自分には大きく響いて今も残っている。
他人から見て、つまらないものが自分の心に残ったり、琴線を打ったりする。
どうして、とは説明できず、ただ心が反応したまま受け止める。

人を率いる立場になって、自分のことばかり考えていたが時折他人のことも考えるようになった。
今までどれだけ独善的でいたのか、よくわかる。
いざ考えるとなるとあまり思いは巡らないが、それでも少しずつ考える。
他人から見てつまらないものを、個人は大事にしていることが多い。
だいたい頭で容易に想像できることを「理解している」と勘違いしがちだが、どうやら「理解」というのは「行動できてこそ」なのだなとしみじみわかってくる。
「行動」ということを考えると、重い言葉だし、口に出すということも重い。
多くの人はやってみないとどれだけ大変なのか、どれだけ自分の考えに穴があったのか、ということを理解できない。
いつまでも考えているだけでは、その考えに大きな欠陥を残すことになる。
当事者じゃなければ、それに挑戦している人間でなければ、まったく理解できないことだってある。
当人にとっては理解と言うよりも、条件反射に近い反応だって示すことがある。
そんな一つ一つのことを考えながら、感じながら、集まってくれた人たちに活躍の場を提供する。
シナリオは自分が作っているし、もらった台詞や音声ファイルを組み立てていくMIX作業は自分がやっているから、もし面白くなかったら全て自分のせいになる。
それでも、誰か一人の宝物になればいいなと想いを込めている。

心理学用語で「未完の円」という言葉があるそうだ。
円をしっかり描いている方と、輪郭が一部切れている方、どちらが気になるかと言ったら、ほとんどの人が切れている方が気になると答えたそうだ。
その結果から、完全なものよりも、不完全なものの方が気になるという作用らしい。
もっと言うと「完全な円の状態を知っているから」こそ気になる現象だろう。
自他を含め、一つ気に入らないものが見つかると、とことん気にならないものを広げていく。
よほどの人間ではない限り、その些細な悪意を止めることはできない。
挙句の果てには「どうしようもないやつ」という烙印を押す。
「未完の円」のように「自分の理想像からその人間を捉える」からだろう。
それぞれ何かしら癖のある人たちが団体を構成している。
逆にそれが楽しい。

私はあまり自分の趣味を他人に広めるつもりはないのだが、唯一創作という独善的かつ想像的世界だけは他人に示していかないと自分が生きている意味がなくなってしまう。
このことは他人には理解できない感情だし、やっている本人にしかわからない微妙なものもたくさんある。
そう考えると、その行為の真っ最中の人間は誰しも自分のようなものを持っているということだ。

時折、理解はしてあげたいが、失敗するから止めたいというのもある。
年を取っていくと「失敗込みでの経験」という過程を重視して人を見るため、あまり言うことがなくなってくると聞いたことがある。
それができたらよほど立派な人間なのだろうが。

自分にとってくだらなく感じることは、他人にとってもくだらないものであるとは限らない。
そんな当たり前のことさえ意識せねば常日頃忘れ去ってしまう大事なことなのだから、どれだけ「普通の配慮」には訓練が必要かと思う。
それと同じように、作品を作った時、どれだけ相手に届くかは未知数だ。
まったく届かないかもしれないし、ほんの少しだけ届くかもしれないし。
全ては自分の中から始まって、全ては相手の中で終わる。
この当たり前のことが時折怖くなる。
他人にとってただのゴミにしかならないのではないか、とか。
でも、もしかしたら・・・
誰かの宝物を作れるよう、歪な円ながら進んで行こうと思っている。
更新の止まったサイトで同じループ音楽を聞きながら。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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