これからどんどん情報化社会になってきて五感情報が欠落してくる。
何度も言いたいのだが、繰り返し言うつもりだが、五感情報を欠落させないことが重要だと思っている。
そんな中、ふと、この言葉遣いでは通じないのではないかというまとめがあった。
よく聞くことだが「精神疾患は努力で治る。精神病になるのは甘え」というやつだ。
私はこの理屈で、冗談でも誇張でもなく現実で命を一つ二つ犠牲にしそうになったので、口が割けてもこれが言えない。
だが、そのような危機になる前は確かにこの理屈はまかり通っていたし私も苦しめられた。
自分が人殺しになるかもしれない、などという危機感などあろうはずがない。
そもそも人間はとことん因果な生き物で、自分の感覚に近い情報を集めて脳内情報として編集し、蓄積していく癖がある。
なので基本的には思いやっても、わからないものはわからないし、理解しようと思っても限度がある。
まとめられていた内容を端的に言うと、「甘え派」の主張は自分の主張がくくっている「グレー」の部分と「アウト」の部分を混同していて、もはや医療そのものに対する批判、暴言にまで自分の主張が達しているのに、その分別ができていなかった。
ようは自分が見てきた、主張してきたものを肯定する情報だけ集めていたのだが、大事なのは自分の意見が批判された時に他者を納得させられるだけの論拠が提示できるかどうかが対話であり正しい分別と思考なのだ。
最もやってはいけなかったことをやっていたのだが、「アウト」の部分「完全に精神疾患となり苦しんでいる人たち」「もはや自分の努力ではどうにもならない人たち」を、「グレー」の部分である「自分が主張している半分落ち込みぎみで努力でもなんとかなるが鬱にもなりそうな人たち」と混同して絡めていた。
自分が思い描いている「グレー」の部分を「アウト」部分と絡めるだけではなく、医療や精神疾患の人たちにまで主張が及んでいるのが完全な暴論や罵倒の部類であるということに気がついていなかった。
このように自分の感覚に沿って情報を集めるということは、いくら表面上綺麗に言おうと以上のようなとんでもない罵詈雑言の範疇を人に対して叩きつける暴力を平然と行ってしまうことにもなりかねない。
そしてこのような主張のほとんどは実例に基づくものに乏しく、ほとんどが「また聞き」「間接的情報」による推論と「極めて小さな規模の個別の事情の集積」による極論である。
テレビでああいっていた、私の友達が知り合いが、といって全体を否定するのは完全な感覚の閉鎖性を示している。
これは分別ある大人とは言えない。
何も理解していない子供が言うことだ。
おそらくこの「甘え」の主張をした人は、私が言う「五感を大事にしろ」の言葉も、自分の感覚の中に取り込んで理解するだろう。
私は経験している。経験したことしか言ってない。だから正しい。
もしかしたら全体には適応できず「自分とそのお仲間にしか正しいこと」なのかもしれないとは絶対に思わないわけだ。
このような事例が目の前に出たからには今回はまた私の主張を補足しておきたい。
そもそも正常な五感感覚とは「自然」であるということだ。
「自然」とは「自然物」のことであり、当然「人工物」ではない。
人工物は人間の作り出したあらゆるものを指す。
情報や自分の中に存在しているもの、人が作り出した物(物体)など、人工物である。
ここで「自然物」を出したときに、混同するところは、一体どこなのかということを考える。
端的に言えば「他者感覚を知る」ことができるのが正常な五感を鍛える近道だ。
私も小説を書いていてようやく気がついてきたが、閉鎖的な感覚、辛いときなど自分の主張しかできない。
自分の主張が精一杯で他人の感覚へ想像力がいかない。
これは知らないからしょうがないとも言えるのだが、他者感覚を鍛えるには、かなり辛いものがある。
というのも自分の感覚を優先させているうちは自分以外の自然に存在している感覚は少し理解し辛い。
例えば風を出すとわかりやすいのだが、風は体に受けないとわからない部分が大きい。
温度や湿度や風力などは体感温度でわかるし、時には雨や雪など気温や天候によって風の中に混じるものが違ってくるのはよくわかるだろう。
そして同じ場所に立っていれば、だいたいは皆同じ感覚と意見で仲違いをせずに一致すると思う。
しかしこれが「どこからこの風が流れてきているのか」とか「この風はどこへ行くのか」「どう変化してきて、どうなっていくのか」という部分になるとたちまち争いが起きる。
ここで一番正しい意見を言うものは足を使って風や地形や雲行きなどを追うものであって、その場から一歩も動かないで体感だけで言う人間ではない。
自然のものを知る。
五感を自然に慣らす、五感情報を人工物によって欠落させない、というのは流れる様々なものの中で自分の立ち位置を変えながら物事を見ていき、今までとは違った感覚があることを知るということだ。
そこに突っ立っているだけでも「知識」はつくかもしれない。
しかし実用的な知恵は頭だけ動かしていてもまったくわからない。
推論だけで語るならまだしも、他人にまで推論を根拠にして指示をするようになる。
自分はずっとここに立ってきて感じたことは間違いないから、”この先もこうなるはずだし、それを証拠付ける体験もしてきた。お前らもそうだ。”、となっていく。
自分は農耕民で相手が遊牧民にもかかわらず平然と言う。
「個人の意見」がいつの間にか「集団の理論」にすり変わる瞬間だ。
自分が立ち位置をまったく変えない限り、自分のテリトリー内での意見であることをわきまえられないと、何もかも絡めてやたら大きな問題にまでしてしまう。
多くの分別のつかない人間がすることは、コンパクトにまとめ、選り分けなければならない問題を、あれもこれもごっちゃにすることで雪だるま式に問題を大きくして、場を混乱させるというのがあげられる。
物事を知ることがなぜ辛い作業なのかというと、自分の立ち位置を変えることは、時として真っ向から反対してくるものの立場と考え方を知るという場面にも遭遇するからだ。
この作業が一番苦痛を伴うし、相手の攻撃性に余計に持論を固めて意固地になる心理作用が出てくるため、大抵の場合は、喧嘩別れする。
それも自分の知識や知恵や教養不足からくることなのだが、攻められ反発しなければ敗北感に見舞われるため、相手を認めたくないし、もし認めてしまったら自分を否定することにつながると感覚的に思うのでやらない。
頭では議論を公平にしたいとわかっていても、感覚的に「勝負」の土俵になってくる。
おかしなことだ。
もしかしたら世界はこんな風に争いを繰り返しているのかもしれないが、少なくとも持論を引っ込めてよく相手を観察することでしか相手の感覚は飲み込めてこないし、感覚が飲み込めないと言語感覚すらも理解できないと私は思っている。
知識を深める。
よくものを知る。
自然を知っていく。
これは「ざっくり」ではいけない。
植物は緑だ。
本当だろうか。
魚は皆水がないと生きていけない生き物だ。
水がないと生きていけない生き物は魚だ。
逆にしてみたがたちまち違和感が出てくる。
Aさんは明るい人だ、と言えても、明るい人はAさんだ、とは言えない。
かと言って、Aさんはずっと明るいままの人だ、とも言えない。
こういう当たり前の感覚が頭だけで考えているとわからなくなるのが怖いところだ。
このような間違いは人間はよく起こすが、その度に自分以外のもの、自然物に触れて頭の中を叩き直していく。
こういう作業ができるのが自然であり、五感が鍛えられていると言える。
昨日までの自分は今日の自分ではないし、ましてや他者ならなおさらだ。
いつの間にかざっくりと知った程度で「わかったつもり」になっていないだろうか。
何か異種のものに降れたとき、自分が間違っているかもしれないと疑問が持てるのが正常な感覚であると申し上げておきたい。
五感を鍛えるには「自然」に触れていることが大事だ。
それは決して理屈の世界ではないことが皮膚感覚でわかってくるだろう。
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