医療従事者の経験談を聞くと「終末患者(ほぼ寿命も近く他の病院も受け入れず、ここで死を待つような患者)」は2つに1つなんだと言う。
・感謝の言葉を述べる人
・我がままばかりで周囲への文句しか言わない人
不思議と真ん中はないと言う。
そして顕著な例はお見舞いの人数だと言う。
前者は家族親族等お見舞いも常に来ていて温かな雰囲気なのに対し、後者は家族親族がいても一切お見舞いにも来ないのだという。挙句の果てに亡くなってからも家族親族が面倒くさがって揉めるケースも珍しくはないらしい。
人生の集大成が、その人の最後に現れる。
何故なのか。
説明しないでも大人ならば理解できることだろうけれど、理解できるのに実行はできない。
そんな差異が死の間際で顕著な現実として目の前に現れる。
この差は何か。
今の僕が断言できることは、
・愛を学んだもの
と
・愛を学ばなかったもの
だと思っている。
愛とは何か。
それは自分の価値以上の未知の何かに対して懸命に自分の人生をぶつけることだと思っている。
犠牲と根気と時間と言葉と感覚とやり取りと体験。
自己犠牲には違いないが、愛を知っている人間には違和感がありすぎる言葉だ。
だけれど知らぬ人間には、自己犠牲以上に費やさなければならないものがある。
両者の感覚は相容れることはない。
愛を知ると、自己犠牲以上のものが求められても苦痛ではなくなる。
価値基準が大きく異なってくるからだ。
目に見えないものが見えるようになる。
だけれど愛とは一種の体験でもあるから体験がなければ、この壁は一生突破することはできない。
そして愛を知らぬまま死ぬことになる。
だから周囲への愚痴や文句が平然と言えるようになる。
そこには自分しかいないからだ。
自分が明日死ぬとして、感謝を述べられる人間が何人いるだろうか。
何に感謝をして言葉を告げられるだろうか。
若かろうが老いていようが同じことだ。
人間はいつ死ぬかわからない。
だからこそ、せめて誰か一人でも感謝の言葉の内容を吟味して伝えられる人を生涯のうちで見つけられたとしたら、その人間の人生は幸福だったと言えるのではないかと考えている。
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