前回のクローズアップ現代の記事、
でコメントをいただいた。
私も思う所があり引用させていただきます。
今回の話は私事ですので、ひとつの例として読んでください。
〜引用〜
私自身は、やさしい虐待、明らかな暴力、両方とも受けました。優等生タイプです。今は3児の母で・・自分の代で有害な連鎖を断ち切るぞって思いつつ、気を緩めるとやさしい虐待をしてしまいそうです。頑張らなきゃ。あさかぜさんの文章、読み返してまたいろいろ考えてみますね。ありがとう!〜引用終わり〜
私も「連鎖」に気がついた時、「自分の代で終わりにしよう」と心に誓ったものでした。
特に私の場合は明らかな暴力はないにしろ人格否定や比較、卑下、気分によって変わる論調の押し付け、軽い罵倒などをされ、自然と誰かにも「上から見下しけなす癖」がついていました。
この日本では「〜しなければならない」という空気が強すぎるところがあり、「評価」というものから逆算して物事を見る風潮があります。
その圧力たるや、意識しすぎると本当にどうにかなってしまうのではないかと思うほど重荷になります。
これらの日本の空気は「減点法」で構成されているようなものです。
一度転落したら這い上がるのは難しいと思い込ませるのもここにあると考えています。そしてそれらの脅迫的な、また経済的な理由も絡みますが、社会からの無言の圧力が、親の焦燥感を煽っている。
私自身、素人ながら長年文章の世界にしがみついていて思うことは、何かの比較対象から評価をしだすと、大事な「骨」、つまり「アイデンティティ」がグラグラに揺らいで、ひどい時には見失ってしまうほどになりました。
なかなか思ったように日の目を見ることがなく、遅筆、力量不足もあいまって、挫折感も大きく、時として批難もされながら文章世界に食いついているわけですが、人間「自分以外のものにはなれない」のです。何かとやっていると自分の中で「大きな手応え」「今までにない感触」「誰にも評価されないが、どうも止まらない衝動がある」といった感覚に見舞われます。
ここに「個性」や「魂の骨組み」が潜んでいます。
「自分」というもの「アイデンティティ」とは何かを考えたとき、やはり心の中に一本通る「骨」のようなものが必要で、その「骨」は「自己肯定感覚」から養われるものと実感しています。
血の繋がった人間に人格・存在にまで踏み込まれる否定をされると、ふにゃふにゃの骨の状態である思春期では、曲がって形成されてしまう。
それを矯正するのに十年とか二十年とかを費やすことになる場合がある。
今回番組で指摘されたように「親の過去の抑圧・トラウマの忘却」という意識できないところまで沈み込む場合もある。
叱るのと怒るのとでは違うといいますが、違いは「相手の人間性に踏み込むかどうか」だと考えます。
ついうっかり、子供にとってはうっかりも何もないのですが、親としては「こうなってほしくない」との思いから人格否定までしがちです。
「評価」というものがありますが、とにかく人間は素早く、しかもわかりやすい方法で何らかの自己肯定感を得たいわけです。
そして「100点という理想」から逆に見て物事をあれこれ見て評価し、考えてしまう。
言い換えれば「100点の理想からの減点法」なのです。
親だって完璧な人間じゃない。「減点法」で自らを評価すると精神的につぶれます。
ましてや子供だったら、これから作りあげなければならない思春期のころに、親が「減点法」を用いていたら、子供の持ち点すぐになくなってしまうのは当たり前なのです。
山を一度も登ったこともない、登り慣れてもいない人に向かって「富士山を登れ」なんて言うのは酷じゃありませんか。
いきなり高い山を指差され、「あそこの山頂が正しい。お前はどうしてできない」と言われても戸惑うわけです。
これが「逆算して考える」ということです。
「逆算して考える」というのは「目的」があると非常に計画的に動けるのですが、「目的」と名のつく通り「一通り」の道筋を強く強要してしまうことになる。
そして最も注意しなければならない「否定語」は道から少しでもそれると、すぐに生まれてくるわけです。これが「減点法」の大きな欠点です。
「その道じゃない」「なぜそう歩く」「そんなことでは山頂に行けない」「お前は平坦な道も歩けないのか」
とにかく道から少しそれるだけで苛立つわけです。
常に目的がひとつで、それだけを目指すわけですから。
で、評価する側の人間も評価されているという強迫観念を持つと「100点じゃないと価値がない」という完璧主義に陥りがちです。
これほど辛いことはない。
親もある程度の「適当さ」と「加算法」が必要なのであります。
人間には元々生まれ持ったものもあります。癖も出てきます。好みも出てきます。
自分以外のものになろうとすると「強制」する必要が出てくる。
「強制」するということは「豊かな人間性を育てる」という行為とは、まったく逆で「規格品を作る」ということですよね。極端に言えば。
100から減点していくのと、1から無限に積み上げていくのとでは充実感がまったく違う。
「減点法」だと「自分の持ち点ゼロになった」と思い込んだ時が危うくなります。
親は壊れ、子供は心を閉ざします。
思春期は大事なアイデンティティという「骨」を作る時期です。
この「骨」は「常に立ち返るべき自身の活力」となります。
否定ばかりを与えられ、これが作られず「自分の戻るべき中心」を見失っては、本当にめちゃくちゃになる。
一歩進むのでさえ怖くなる。
生きることに言い換えれば「生きることに価値を見出せなくなる」と言ったところでしょうか。
そして否定癖がつく。
「どうせ私はこうだからできない」「何をやってもダメだ」「ダメな自分は生きている価値ない」と否定的な負のスパイラルは続いていく。
私たちは何かから比較し、評価し、物事を断定する癖が抜けないわけですが、そういう「減点法」から「加算法」へシフトするにはどうすればよいのか。
「現状肯定」の一言に尽きるわけですが、この「現状肯定」は「徹底的な観察眼」によって生まれてきます。
評価や比較を持ち出すと「想像」が入り込んでくる。
この「想像」こそ、目の前に立っている人との「障害」「溝」となります。
大事なのは理想の誰かではなく、今まさに目の前に立っている一人の人間そのものと向き合うことなのです。
向き合うというのは自分のことも知っていないといけない。じゃないと自己紹介もできないわけですから。
思春期のころはアイデンティティを作るための大事な時期です。
どの山に登り出すのかもわからない。親が指し示したものとは、まったく違う山に登り出すかもしれない。
一歩踏み出して二歩目を踏み出す。
その一歩一歩の繰り替えしなのですが、それが長い。子供と親の歩幅は違う。
有名な歌の歌詞でも「幸せは歩いてこない。だから歩いてゆくんだね。…三歩進んで二歩下がる」なんてありますが、目標というものから比較評価(逆算)して見ると「足りないところばかり」が目について、腹立たしくなる。
しかし失敗よりも恐ろしいのは立ち止まってしまうことなのです。
私はいつも億劫になったとき「ゼロよりもはるかに大きい。意味のあること」と考えることにしています。
あらゆる自発的で前向きな行為は「ゼロよりもはるかに大きい」。
心理的に立ち止まってしまうと、それが後の大きな後悔になってしまう。
なんとなく、暗い過去になってしまうわけです。
ようは「失敗をする前進」よりも「失敗を恐れて一歩も動かなくなる」ことが一番の損失だということ。
失敗ばかりが見える「減点法」だと、失敗ばかりを責めて一歩も動けなくさせてしまう可能性が高くなってしまう。
「心理的な呪縛」が大きくかかり「一歩も動けなくなる」のです。
「否定語」は「呪いの一種」であると考えると意識も多少変わるのではないでしょうか。
私、幸せな人生ってなんだろうと考えたとき「自分の人生に納得する」ことが今のところの答えになっています。
これはいくら失敗しようと、どんなに罵られようと、これは自分が選択したこと、自分の不幸、自分で勝ち取った幸せ、と納得できるのが幸福な人生なのだと考えます。
その時大きな挫折や失望や失敗を繰り替えしますが、まだ「骨」みたいなものが残っていれば人間の魂いかに傷つけられようと再生していくものなのです。
その「骨」はいかにして作られるかといったら、「自己肯定感」なのですね。
何度も諦めようとしたとき、ふとあたたかな行為をいただける。
その時「やっててよかったな」と思うわけです。
これが、他人から強いられると、心理的にちょっと違ってくる。
「ああしなさいこうしなさい」と言われ続け、それに従うだけのことをやり続けると、何か困難があったとき人のせいにしだすわけです。
「意志」が育てられないままくると、自分で選択したものも何か強制されたもののように感じてしまう。
それで原因を探し出すわけです。
当然原因は過去に遡り、あの時のあいつが、こんなことがなければ自分は、などと自分以外の物に原因を求めだし、それを永遠と責めつづけるのです。
魂の骨、自分の中の戻るべき場所を失うと、だんだんこういう癖が染み付いてくる。
そうなったら這い上がることは難しくなる。
「理想の答えへと一直線」へと進ませることにおいて、道を外れたときの大きなリスクです。
しかも子供からも柔軟性を奪いかねない。
人生の答えなど無数にあるのに、決められたものしか答えではない、みたいな考え方は「一列に並ぶ社会」においては非常によいかもしれませんが、「多様な社会」の中では弊害になる。
私は親が子にしてあげられる最大の贈り物は「あなたがこの世界に生まれてきてよかった」と最大限認めてあげることだと思うのです。
「減点法」から「加算法」へのシフトをするためには「現状肯定」なのです。
これは「すべてに対して許しを与える」ことではなく、「失敗しても二歩下がってもそれでいい。まだ先がある。一歩進んでいるだけでもはるかに意義がある。前向きな気持ちさえあれば進んでいける」と認めることなのです。
これは親にとっても幸福なことだと思います。
周囲の圧力、評価、環境から与えられる「〜しなければならない」という物事への執着心は、とても簡単に抜けてくるものではありませんが、「一歩進んでいる所をきちんと見てあげられる」ことが子供自身の「自己肯定感」に繋がり、互いにとっての「魂の評価」になっていくのではないでしょうか。
最後に、
クローズアップ現代のスティーブ・ジョブズの記事からジョブズが発した一言引用させていただきます。
〜目の前にきれいな女性がいて、口説こうと思ったときに「実はライバルはその女性にこんなものをプレゼントした」なんていう発想をした時点でお前負けだろう〜素敵な人と結婚する際「この人にはもっといい人が世界の中にいる」なんて発想をしたら結婚なんかできないのと一緒ですね。
「豊かな人間性」は「豊かな長所」から。
それを見せているから「素敵な人」に見えてくるわけです。
大変まとまりがなくなり長くなってしまいましたが、何かのご参考になれば幸いです。
[1回]
PR