自分に何が足りないかって、最近は「感動すること」を忘れていた。そんな人間が感動できる仕事をできるはずがない。あふれて語りつくしても語りつくせない。目をキラキラさせながら語ろうとする人間のように心が満ちてなきゃ、誰も魅了できない。あれやこれやと忘れていた。取り戻そうと思う。
最近気がついたことは、人間は自分が創りあげた論理の中に牢屋のごとく納まろうとする。誰かに閉じ込められれば文句を言うくせに、自分で作った牢獄には心地よさを感じるとは、つくづく奇特な生き物なのだなと思う。いつだって「人」と向き合おうとするには、自らを犠牲にする勇気が必要だ。
愛は自己犠牲?いや、邪念で捉えるならば、一生わからないだろうさ。誰かに犠牲を強いるよりも自らが犠牲になる。本当に愛を語るなら、そうしたくてたまらないはず。なぜなら、誰にも傷ついてほしくないのが、悲しんでほしくないのが、究極の理想なんだもの。たとえ夢であったとしても、やるのが愛。
「いい?よく聞いて?まるいものもしかくいものも大事。形によしあしはなくて、足りないもの、できないことを、それぞれしあうの。人の心は目に見えないもの。しかくかもさんかくかもわからない。あれこれ想像しあって違うものを思い浮かべるかもしれない。でもね、伝え合わなきゃいけないの」
悲しみを救ってやれる人間を待つくらいなら、自分がやってやらなきゃいけない。金にならないことばっかりしてさ、自分は飢え死にするかもしれないというのに。でもさ、アホでもバカでも、世の人間の摂理に外れたような本物の偽善者がいたんだなって、笑わせてやらなきゃいかん。じゃなきゃ意味がない。
待ってくれている人がいる。愛してくれた人がいる。今もこの日本のどこかにいて、自分を想ってくれている。それがわかるんだ。ほらではなくてね、愛してくれた女がいる。だからその人のために、「あなたの愛した人は本物だったよ」と証明してやりたいだけさ。
人がついてくるかどうかは、どれだけ相手の琴線に触れたかに比例する。感動もさせられないトップに、人は魅了されない。
誰も何もわかってないくせに、わかったようなふりをする。もっともらしいことは「わかっている」とは言わない。人間のことが「科学の真理」のように、はっきり選り分けられるはずがない。しかしそのために「学問」がある。「教科書」がある。なるべく、制御できるように、教え込む。え?私?天邪鬼。
「万人の真理を語りたいのならば、口を閉ざすことだね。そして何かをたずねられた時、こう答えるがいい。神の思し召しなのだ、と。勘違いしないでくれよ。私は君にペテンを教えたいわけじゃなく真実は常に広大ゆえにあいまいなのだから、言葉では足りないということだよ。だからペテン師もいるのだが」
「参ったか!」「参りました!」「何に参ったのだね?」「とりあえず自分の無事を考えるのに参ったと言ったほうがいいと思いました」
人は誰かにサービスするために生まれてきているわけじゃないよ。でもね、苦しんで痛みを背負っていかなければ、いざと言う時、本当に大事な人がいても誰一人救えない人間になる。そういう人間は、幸福にも出会えない。愛しているよ。だから、あなたの苦しみは私の苦しみ。あなたの痛みは、私の痛み。
あえて偽善者としての罵りを受け、その痛みを受けましょう。そして願います。人が人を思いやれる社会ができますように。
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