話下手。人づきあいが苦手。心が弱い。愚痴をすぐ吐く。優柔不断。挙げればいいところがないように思えてくる僕にもめでたく彼女が出来、なんとか続いている。
どうして付き合いだしたのか、はたから見ても不思議に違いない。共通の趣味はなく、性格も対照的。読書の感想を書くサイトで互いに知り合い、面白い本を教えあっているうちに連絡先を交換し、毎日やり取りするようになった。
やりとりはするが、互いに愚痴っぽく、互いに聞くときは苦痛を感じることなく聞いていた。一度吐いた愚痴は二度と繰り返さない。ルールはないが、しっかり守っていることはそのくらいだ。後は、互いにいいところがあったら褒めあう。愚痴っぽいネガティブな性格を補うための案だった。
僕たちは幸運にも通勤する場所が近かった。付き合って三か月目頃に同棲の話を彼女が持ち出し、僕もすんなり了承した。
気になることと言えば少しだけ変なことを僕に確認してきただけだ。
「私が変な趣味持ってても怒らない?」
「何それ?」
と聞いたけれど、はぐらかされるだけだった。強く聞いても嫌われるだけだろうと聞かなかったけれど、考えは巡らせてみた。強烈なオタク趣味があるのだろうか。爬虫類マニアとか、昆虫マニアとかだろうか。ゲテモノ料理愛好家。考えてみたが、どれも違ったようだった。何かわからないほど気にならないので、忘れることにした。
生活費や家賃は折半しあう。家事は分担するけれど、できないことは補い合う。互いの愚痴は絶対に言わない。ルールを決めあった。
部屋選びは彼女が率先してやった。僕は周囲がうるさくなければいいと告げただけで、それ以外のことはまったく関与していない。どこで見つけたのか格安、四万の家賃で2LDKのアパートを見つけてきた。
多少郊外だが、交通の便もよく、互いの通勤時間四十分圏内と好条件の物件で、年数は経っているものの、部屋の中はメンテナンスがよくされているのかボロが目立たない。
「こんないいところ、よく見つけたね」と褒めると「物凄い調べたからね」と自慢げに微笑んだ。
僕にとって生まれて初めての同棲生活。うまくいくだろうかと不安が薄布のように被さっていたが、すぐに取り去ることが出来た。
僕は残業がほとんどで帰宅時間がまちまちなのに対して、彼女はきっちり定時で帰ってくる。僕が帰ってくるとだいたい家事は済ませてある。ご飯もできているし、多目に作っているので次の日のお弁当のおかずも、しっかり揃っている。手際がいいのだろう。
食事を済ませて一日のことを話し合い、愚痴を言いあい聞きあい、そしてそれぞれの部屋に戻る。彼女の部屋の扉が閉じられると、たまに中から話し声が聞こえてくる。よくネット上の友達とネット通話することがあったから、気にはならなかったし、別に異性と話していても気にするほどではなかった。僕のようなものと付き合ってもらえているだけでも、ありがたいことだと思っていたから。
しばらく一緒に住んで、このまま上手くいったら結婚も考えなきゃいけないかもなと思い、
「そういえば両親って近くに住んでるの?」と晩御飯の時に聞くと、
「私両親を幼いころに亡くして、おじいちゃんおばあちゃんに育てられた」と寂しそうにうつむいたので、ちょっとした心の傷になっているのだろうと口をつぐんだ。
同棲してから四か月目のある土曜日、ドアを強く叩きインターフォンを何度も押された。休みの日でゆっくり寝ようと思っていた午前八時半、隣の夫妻が怒鳴り込んできた。
「ちょっとあんたいい加減にしてくださいよ! 妻が困ってるんですよ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。何の話ですか?」
僕には怒っている理由がわからない。
「しらばっくれないでくださいよ! コンコンコンコンコンコンコンコン! 昼間ずっと壁叩いているでしょ! 妻がずっと前から被害にあっているって言うから本当かと思って昨日は有給まで取って確かめたんですけどね! あんた何のつもりか知らないけど壁を叩いてうちに嫌がらせしているんでしょ!」
バカな。と僕も強く憤った。
「それは僕らじゃないですよ。僕らは平日は仕事で土日が休日なんです! 平日の昼間に家にいるわけないでしょう! 僕も! 彼女も! 職場にいるんです! それにあなたたちに嫌がらせするような理由ありますか? 何もないでしょ! 滅多に会わないんだから。変な言いがかりつけないでくださいよ! どうしてもって言うならね! 僕らじゃなくて管理会社に言ってくださいよ! 建物の異常かもしれないじゃないですか!」
僕も我ながら、よく他人に対してここまで強気に言えたものだと感じた。心臓は破れそうなほど鼓動を打ってるし、緊張で強張った拳には汗がじっとりと出てきている。正直人の怒りを真正面から受けて恐怖で倒れてしまいそうなほど頭がクラクラしていた。
何か言おうとする旦那さんの後ろに隠れていた奥さんが「あ、あの……」と小さな声を絞り上げて前へ出てきた。
「話し声がするんです。居ないのに話し声がするっておかしくありませんか? 誰かに鍵を渡してるとか合鍵で入られてるとか、そういうのないんですか?」
「話し声って……」
さすがに僕も少し怖くなってくる。物を取られている形跡はないにしろ、誰かに部屋に入られているのなら、鍵を変えなきゃいけない。事実がわからないだけに、どうやって確かめていいのかもわからない。
その場は収まったものの、奥さんから少し詳しいことを聞いてみた。
話し声と叩く音は週に一二度必ずあるという。多い時は五度もあったらしい。音は僕らが引っ越してきて、一か月後に鳴り出した。どう考えても僕らのせいだとしか考えられない、と奥さんは弱々しい声ながらハッキリと告げた。そして話し声は一人ではなく複数のように聞こえるということだった。
家の中に戻り彼女が心配そうな顔で起きてきたので事の次第を話すと「そうなんだ」と驚く様子もなく答えた。彼女の冷静さに驚かされたものの、起きたばかりだし寝ぼけているのか、それとも興味がないのか、いずれにせよ痛い出費だけれど監視カメラを買ってリビングを撮っていいだろうかと許可を取り一週間撮影した。ちょうど隣とはリビング同士が壁で仕切られている。
結果、何一つ怪しいものは映らなかった。
結果を踏まえて隣の奥さんに話に行くと「今週は何も音は鳴りませんでした」と伝えられた。僕らの動きがわかっているのだろうか。もしかしたら逆に監視カメラがあるのかもしれない。部屋中細かく、通気口まで丁寧に調べたけれど何も見つからない。それからというもの、特に音がするとは隣も言わなかったし、合鍵が作られたのかと少し不安にも思うところはあったが、徐々に忘れていった。
徐々に夏の暑さがきつくなり、連日猛暑のニュースが流れてくるある日、僕は珍しく残業もなく定時で帰ってこれた。会社はろくにクーラーなどつけないから、ひたすら暑さに耐えながら仕事をしなければならないので、木曜だったけれど、さすがに疲労してきていた。
僕はリビングのカーペットに着替えもせずに倒れこんでしまい、少しだけ休もうと死んだように横たわっていた。
耳をカーペットにつけていたけれど、話し声が聞こえる。男女の声のような気がする。ふっと耳を離すと聞こえなくなる。床下から伝わってくるのだろうか。もう一度、今度はフローリングに耳を付けると、やはりぼんやりと聞こえてくる。
ゴンッ! と隣の壁が鳴った。ふと壁を見てしまったが、きっと何かぶつかったのだろう。思い切りぶつかったような音ではあったが、壁がしっかりしているのか、それほど気にならない。うるさいほど壁を叩いていたのだろうか。小さな音でも気になりだすと止まらなくなる心理だろうか。気にするほどでもないでしょ、と思ってしまった。
いつも僕が残業で二時間近く定時より遅れて帰ってくるせいか、彼女の部屋の扉は閉まっている。晩御飯はまだ作られていない。帰ってきていないのだろうか。
フローリングからはもう声が聞こえない。その代わり今度は彼女の部屋から会話のようなものが聞こえだした。明らかに彼女の声ではない。
緊張と恐怖が体中を締め付ける。
まさか隣の奥さんが言っていた不審者かと思い勢いよくドアを開けて「誰!?」と叫ぶと、パソコンの前に座る彼女の姿があった。会話はパソコンのスピーカーから聞こえていた。
「なんだ。びっくりさせないでよ」
恐怖がするりと抜け落ちた僕は安心しすぎて床にへたり込んでしまいそうだった。
しかし安心感は一気に吹き飛んだ。彼女はじっとこちらを見るだけで何も言ってこない。隣の奥さんの話をした時のように無反応で冷たい瞳をこちらに向けている。
「ごめん。部屋に急に入っちゃったから怒ってるんだよね。本当にごめん。不法侵入されていたのかと勘違いして……」
僕が言葉に詰まったのは、スピーカーから流れてくる会話だった。親子の会話のようだが、彼女の声に似ている。男性の声も、よくテレビなどで匿名の男性がインタビューを受けた時に声を低くぼかしたようだった。
無言の空間に音声だけが流れる。そして音声は彼女の名前を呼んだ。
「あ、それ、何かの、録音?」
「そう。自分で録った」
「全部、自分で?」
「そう。全部自分で。両親の会話も全部」
彼女の表情が緩むことはない。淡々と冷たいまま、無表情のまま。ふと、この部屋に住む前に僕に確認してきたことを思い出した。
「あ、変な趣味ってこのこと? 僕気にしないよ。大丈夫大丈夫」
何故家族の会話のような録音をして自分で聞いているのか、聞けなかった。もしかしたらネット声優のような活動をやっているのかもしれないし、何か今聞くのは気まずい雰囲気だった。
「私ね、家族ってものを知らないから、ずっと作ってるの」
「え? 家族を作る?」
うつろな目で彼女は視線を逸らさず見つめてくる。
「こうやってね、自分で録音して、音声変えて、家族ごっこしてるんだ。少しでも家族がいる気分を味わいたくて」
僕は言葉に詰まった。それほど両親のいないことが彼女の心を孤独に蝕んでいたのだ。
「じゃあ、壁の音は? 君がやったの?」
聞いた途端、彼女の瞳から光が消えた気がした。暗い井戸の底を覗き込んでいる気分だ。背筋を悪寒が走る。
黙ったっきり何も言わない。否定しないということは、彼女がやっていたのか。でも、彼女も平日は仕事のはずだ。監視カメラには何も映っていなかったし、だいたい一緒の時間に出て電車にも乗り込んでいる。壁の音は彼女ではない。
その日、僕が久しぶりに晩御飯を作ることになったが、声をかけても彼女が部屋から出てくることはなかった。
次の日彼女は朝早く仕事に出て行ってしまった。怒っているのだろうか。まさか別れ話を切り出されるかもしれない。不安にかられていると、また隣の奥さんが訪ねてきた。
「すみません忙しいところ。昨日も音がしたんです。夕方の六時くらいだったと思いますから、家にいらっしゃいましたよね?」
「六時……え、ええ。たぶんその時僕は疲れて床に倒れこんでいたと……あっ」
「はい?」
床から話し声が聞こえたような気が、とは言えなかった。彼女のパソコンの音だったかもしれないため確証をもって話せない。
「本当に僕らじゃないんです。信じてください。あの、今日一日だけでいいので、そちらの家で壁が鳴るか聞いていていいですか? 僕監視カメラまで買って家の中映しましたけど何もなかったんです。こうなったらどうしても犯人を捕まえたい」
最初は渋っていた奥さんだったが、夕方までだったらと許してくれた。家には監視カメラ。そして僕は隣の部屋で音が鳴るまで待機。今日不審者が訪れるとは限らないけれど、やらないよりかはましだ。会社には仮病を装って強引に休んだ。明日を言われるかわからないけれど、もう知らない。
隣の家に入ると違和感があった。古い感じがする。使い古しているのだろうか。うちのメンテナンスが良すぎるだけなのか。
「やっぱ、四万なんて、こんな感じですよね」
つい思ったことが口に出てしまい、時すでに遅しだった。
「四万? 何の話ですか?」
「あ、家賃の」
「家賃? 八万じゃないんですか?」
八万? じゃあうちは半額であの部屋を借りているのか。何故、半額? 単純に考えられることは「事故物件」だということだ。誰か自殺したか、病気で亡くなって発見がだいぶ遅れたとか、殺されたとか。だから部屋も新しい装いだったんだ。そう考えると納得がいく。
飲み物や軽い昼ご飯をご馳走してくれたけれど、基本的には僕はずっと壁に耳を当てていた。これが結構辛い。十分ごとに少し休みながら迎えた午後四時頃。
コンコンコンコンコンコン。
コンコンコンコンコンコン。
壁が鳴り出した。しかもかなりハッキリと。まるで壁が薄いかのように聞こえてくる。だけれど昨日こちら側で鳴ったであろう音はこもっていてハッキリではなかった。
いずれにせよ、不審者が現れたのだ。合鍵なのか何なのかわからないけれど、僕らの家の中に誰かがいる。
僕は姿を確かめるために無防備にも家に走った。
「あ、警察を呼んだ方が!」
奥さんの声が背中から聞こえたけれど、僕は必死だった。何が目的かわからないが許せない気持ちでいっぱいだった。相手がもし刃物を持っていたら等とも考えられなかった。
この目で確かめてやる、という気持ちでいっぱいだった。
部屋の中に靴も脱がずに入っていくと、そこには、誰も、いなかった。隠れたのか。くまなく部屋を探す。誰もいない。逃げられたのか。
深いため息が漏れた。
夕方彼女が帰ってくると「あら? 私よりも早いなんて珍しい」と笑顔で話しかけてきてくれた。いつもの彼女で怒っている様子も昨日のような冷たさもない。
「どうやらうちの合鍵を作られてしまっているようなんだ。明日管理会社に言って鍵を変えるよ」
次の日、重要な話もあり、社長に直接繋いでもらうように電話をかけ、事情を話した。
「リビング以外からは、鳴らないんですよね?」
だいぶしわがれた声だった。
「まあ、恐らく。それとうちの家賃が安いのが他の部屋と違って安いのが気になるんですが、事故物件かなんかなんですか?」
「それをわかって入られたのでは?」
「え? 僕は何も聞いてないです」
「じゃあ、何も聞いてないんですね」
プライバシーに関わることだからと社長は何も話してくれず電話を切られたが、すぐさま僕はネットで検索した。過去の記事か事件か、何か引っかからないか。するとすんなりと引っかかった。
夫婦、遺体で発見される。夫は白骨化。妻は死後一週間。連絡が付かず不審に思った管理会社社長が第一発見者。
苗字は、彼女と一緒だった。
司法解剖の結果、夫は脳梗塞で亡くなっていたことが判明。妻は外傷などなかったが極度に痩せており、死因は餓死。
二十二年前の出来事だった。
もし彼女の両親だとすると彼女が三歳頃の出来事だ。
帰ってきた彼女に、二十二年前の事件を聞く。
しんと冷たく静まり返る。いつもの照明なのに部屋が暗くなったように感じる。
彼女の声には抑揚がなかった。
「お父さんは脳梗塞で倒れてから気を失うまでの間ずっと隣の部屋を壁越しに叩いていた。バブル崩壊後、一度は職を失ったお父さんと働きに出ていたお母さんの収入では子育てができなくなって私は祖父母の元に、事件が起こる四か月前に預けられた」
まるで見てきたかのような言いようだった。
「ここはね、ある意味お父さんとお母さんの墓場のようなものなんだ。奇妙な現象が起こるのも知っていた。だから数か月おきに空く。きっと、まだここにいるんだと思って住むことにした」
淡々と機械のように言葉を発する彼女。
「私には聞こえる。家族の声が。録音してたでしょ。何を言ったかは再生するまで覚えてないんだ。あなたはとてもいい人だから一緒になれって両親も言ってた」
一歩ずつ近づいてくる中、体が凍ったように動かせない。
足元から振動を感じる。
コンコンコンコン。
コンコンコンコンコンコン。
打つ音が増えていく。
その音は彼女の部屋のドアからも聞こえてくる。
壁の音に囲まれ、血の気の引いた紫色の彼女の唇が重なってきた。
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