父と私は生涯仲良くはできませんでした。
いつ頃からか、ひどく私を目の敵にするようになり、自分の気に入らないことがあると私に向かって暴言を吐くようになりました。
それはもう一方的でこちらの言葉など聴く耳持たず余計に苛立つようなので次第に私は黙るようになりました。
一日最低一回。
それでも一日二回ほどの細かな野次でも一年間で七百三十回以上も聞いていることになります。
最初の二、三年間はひどく落ち込みました。
それでも前向きに生きていこうと気持ちが切り替わると次の二年ほどは嫌悪するようになりました。
次の一年ほど、私は完全に無視をしようと会わずに避けて生きるようになりました。
私が一人暮らしを始めればよかったのですが、母親が生来の心配性でなかなか離れることもできず、精神的に崩れることもしばしばありましたので、一緒に住んでいたのが不幸の始まりでした。
また雇用も不安定で職を転々とすることが多い中「なぜ正社員で働かないのか」という親の不安と疑問を解消することができなかったのも父の暴言を助長させた原因のひとつかもしれません。
少ない給料で久しぶりに飲みに出かけたくなり、次の日の休日を利用して夜中になろうとしている時間に出かけようとすると父が私の部屋の前を監視するようにうろうろしていました。
ばったり出くわすと、またどんな野次が飛んでくるかわからないのでこそこそとチャンスを見計らって出かけていきました。
飲みに出かけるといつも泥酔して帰ってきます。
どうしても溜め込んでいた苛立ちが噴出してくるのを打ち消すように安酒を流すように飲んでしまい帰りの路上で嘔吐するという最悪の飲み方です。
いつ帰ったかもわからず、どうやって家に帰ってきたかもわからず、血管が脈打つごとに頭の中で破裂するのではないかという二日酔いの痛みの中、かろうじて自分のベッドに寝ていることはわかりました。
意識がもうろうとしている中、乱暴に扉を開ける音がしました。
そんなことをするのは家の中では父以外にはありえません。
そして力を込めて侮蔑の言葉を吐いていった時、自分の中で何かが抜け落ちていったのです。
きっとあれは「良心の存在」だったに違いありません。
すっと、体の中で何かがすり抜けていくような感覚に見舞われ、その後は憎悪しか残りませんでした。
私の部屋は二階で父はいつも一階の居間にいるので、私は一階のキッチンから果物ナイフを取り出して父を正面から刺しました。
ぐっと胸の中に全部の体重を預けるように刺した感触をよく覚えています。
その後のことはよく覚えていません。
記憶が飛んでしまったのか、気がついた母に向かって「こうなる前にもっと話し合うべきだった。それができなくてこんなことになったのは残念だ」と言ったのを覚えています。
私は家の中で父と過ごすのはもううんざりでしたので、透明の袋に入れ中に薬品を満たして私の部屋の窓伝いにある屋根にそのまま放置しておきました。
日に日に肉が溶け、筋肉と見られる赤い組織から骨が見え始めます。
袋の中は水槽の中の濃い藻のような緑色の液体に変色していってました。
その様子にほくそ笑みながら部屋の中から石をぶつけると袋に穴が開き、開いたところから勢いよく中の液体が噴水のように飛び出していきました。
しかしその量が半端なく、袋の中に入っている液体量よりもはるかに多いと思われる量が勢いよく出ていきます。
すべて中の液体が出ると、ずるずると屋根を滑り庭に落ちていきましたので、そのまま野ざらしにしていました。
ある日気がつくと白骨化した父の上半身を庭の板に立てかけて置いているので何をしているのかとあわてて外に出て、それをばらばらにしたのですが、庭に散乱した骨を見て、改めて拾い集め裏庭の石に骨を打ちつけて粉々にし、土にばら撒いて足でならしておきました。
庭にはまだ足の骨などの太い骨が残っておりましたから、それは足をてこにして折ってばら撒いておきました。
「これで大丈夫だと」安心したのもつかの間「父が無断欠勤を続けていて会社から連絡が来ないだろうか」と「隠し通すことの不安感」が日に日に大きくなったのです。
そしてついに恐れていた日が来ました。
ドンドンドンともガンガンガンともバタンバタンバタンとも聞こえる、家の扉を強烈にたたく音が家の中に響き渡ったのです。
たたく音がどれほど暴力的な音に聞こえたかたとえようもありません。
その時「知らない」ですべて隠し通せばいいのだと思っていました。
私は何も知らない。
被害者は私だ。
殺したことに何一つ悔いはない。
人を罵倒し続けることがどれだけ心をめちゃくちゃにする暴力かわからないのだ。
おびえる、というよりも「不安」の方が大きく、私は一体これからどうなるのだろうと真っ白になる気持ちが支配しました。
「出て来い!いるのはわかってるんだぞ!」
「いつまでそこにいるつもりだ!」
「この扉を開けろ!」
何人かいるようでそれぞれ叫びの声色が違っていました。
嫌だ。私は絶対出ないぞ。
ここを出たってもうおしまいなんだ。
一生殺人者として日陰者だ。
そうだ。母はどこだ。
探してもどこにも見当たりません。
そうか、母がしゃべったんだな。
こんな私はもう見たくないか。
そうだよな。
息がぷくぷくと湧き出てくるように力なく「くっくっく」と笑っているのが自分でもわかりました。
「早く開けろ!頼む!」
頼むだって?
どうせ警察に突き出すつもりだ。
私はもうここでいい。
ここでいいんだ。
私は目を閉じ、耳をふさいで丸くなって寝転がりました。
「先生、様子はどうでしょうか?」
とある病院の一室のベッドに人工呼吸器に繋がれた一人の男の姿があった。
男はうつろな目で天井を見つめたまま動かない。
白衣を着た医師と見られる男の周囲には数名の中年男女が心配そうな面持ちで医師の言葉を待っている。
「市販されてない強い睡眠薬を大量に服薬したようです。命は取り留めましたが、反応が見られません。このまま植物状態になる可能性が高いです」
言葉を受けて中年の女性が一人泣き出した。
「だってこの前まで元気でいたんですよ!?それがどうしてこんなことになったんですか!」
医師はその叫びの答えを持ち合わせてはおらず、神妙な顔をしながら泣き出した男の母親を見つめた。
「とにかく、できる限りのことはしてみます」
そういい残して医師は部屋を出て行った。
「やっぱり、自殺なのかね?」
「自殺する理由なんかありませんよ。何か他の事情があったんでしょう」
「そうだよな。あれだけ幸せに育ててもらって自殺なんて考えられない」
父親や親戚たちがあれこれとしゃべりだす。
二人ほどはずっと言葉を失った状態だった。
ベッドの上の男はうつろに虚空を見つめたまま乾いた眼から涙を流した。
話が終わると親戚一同病室からそろりそろりと出て行く。
扉は閉じられ、植物状態の男だけが取り残された。
[3回]
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