私たちは文明社会の中に生きていて、生きるために必要なことのほとんどは文明を維持するために仕事をして対価を稼ぐというのがほとんどすべての人に当てはまると思う。
ホワイトやブルーと言われ区別される人たちだが、ちょっとその分類では区別しにくい文化活動に属して仕事をしている人たちがいる。
目に見えない技術や成果というものが文化の中に含まれることが多いが、通常知識がなければ、この目に見えないことを日常生活の中でどれだけ享受しているのか理解しがたい。
私は目に見えづらい価値を作っている人間の立場なので、「それは生きるために必要なことなのですか?」と問われれば「今直接稼ぐために必要ではないと仰るのなら、今使っている調味料や加工食品などはすべて目に見えない技術や文化の結晶なので、今すぐ破棄なされることをお勧めします。なぜ私がこういわなければならないのか理解できなければご自分であなたが特に享受している国の文化活動の歴史をお調べください」と申し上げるでしょう。
我々の生活の中に深く浸透しすぎて気がつかない文化と言うものはたくさんあり、それは当初同じように「何故生きるのにそのようなものが必要なのか」と当時もその人を見て思っただろう。
文化と言うのは民族の結晶たるものであり、文化を失う恐ろしさと、文化を説明できない屈辱を日本人は日常生活していて味わうことなどないし、特にそんな歴史もなかったのだから、そのような日常使用しているものを根こそぎ無視した発言もできる。
さて、文化として成り立っているものは結果として残ったものであるから、当然現在進行形で残るか残らないかもわからないような代物に対しては、理解しがたいというよりも、まったく発想として追いつけないだろう。
何故そんな無駄な事をするのか。
成果すらも上がらないものに価値などあるのか。
ほとんど全ての人は結果として出来上がったもののみを価値として、その途中過程で培われてきたものなど一切無視する。
だからこそ、嫌味の一つも言いたくなる。
これは問題の差し替えではなく、文化というものが一度途切れてしまった時、それを復活させるのは非常に困難だということを一度として考えないし、数多くの継承の中で優れたもののみが生き残っていくという、自然界でも当然起こっていることが文化活動の中でもまったく同じように機能していることを知らない。
だが、優れたものが生き残るにしても、極端に言えば誰もそれをやらなければ残りもしないし、優れたアイディアが他のアイディアを刺激して、思いもよらないところで間接的な相互関係を築いていることは、アイディア職にいないものには想像しにくい。
それは発想が貧困などというのではなく、触れたことも考えたことも一度もないのだからわからないのだ。
以前、ある短歌がどれだけ優れているかということを有名大学大学院卒の子に説明したことがあるが、まったく響いていないようだった。
わからない人にはわからないし、興味を持っていなければただの言葉程度にしかならない。
だが私は決して人間活動は生きるためのみに集中しているのではなくて、他者から見れば多くの無駄だと思えるようなものを楽しみとして享受しており、そして自分の趣味として他者には理解しがたいものを愛でている。
それをひっくるめて文化活動と言う。
しかし上述したが結果が出ていない途中のものに関しては当然批判の対称になる。
そんな厳しい現実は受け入れていかなければいけないし、それに耐え切れないほどの精神や情熱ならば止めればいい。
だが私は少しでもアピールしたい。
菌類も含め、私たちの文化は目に見えないものを日常生活の中に取り込んでいる。
あたかも無駄だと思われてきたものへの挑戦と偶然の産物が生き残り、多様で豊かなな文化を形成していく種となる。
もし文明の奴隷となり、趣味も何もなく「生」のみの機能性だけを追求したいのなら言うだけ言えばいい。
それはロボットと何が違うのかと逆に問いたい。
[2回]
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