5月22日土曜日、大通りでワインフェスタのようなものをやっているのを見かけてしまい、思わず罠にはまってしまいました。
お酒飲むつもりがなかったのに、ついつい4杯飲んでしまった。
使うお金も非常に限られているはずだったが、出し惜しみしてもしょうがないと思い決断して飲んだ。
久しぶりにそれなりに贅沢な気分にさせていただきました。ジャズとワインとロウソクの火が素敵でした。
と、北海道ワインは実に日本で33%も生産している日本一の地。
その次が長野の18%ということだ。
十勝とか富良野の赤であればまだ飲めるイメージがあったけれど、どうしても白となると小樽ワインのようなあまったるーいものを想像しがちでした。
安くてデザート感覚でのめるのはよいのだけど、酒量の多い人、つまり私に限ったことなんですけど3杯とか4杯はきつい。
しかも他の酒飲んだあとの締めとして、あまったるい白がくると、必ず大惨事になったという経験が多いものですから先入観があったのですけど、あらまあ不思議。
普通に店頭で並んでいるワインとはちょっと違ったものもあり、飲みやすいものがあった。
それと同時に、ああ北海道ってこんなに広くワインの生産地分布していたのねと実感しました。
その中でも山葡萄の赤ワインがおいしかった。
非常に癖のあるワインだから、誰でもおいしく飲めるというものではないけれど、10年ぐらい置いたワインに近いようなポテンシャルを持っていた。
へー!北海道でもこんなワインが作れるんだね!と再発見。
ちなみにその時のツイート。
2006年産赤。山葡萄は余市と岩手県洋野町。酸化防止剤を1.35ppmに抑えている。年数は浅いが苦味と酸味と甘味が混じり合い新鮮な野菜をかじるような感覚の中に甘味がある。通常売っている北海道ワインとは桁違い。芳香と苦味の奥行き。感動。いいね。幸せだ。
なんて四杯目のワインで当たりを引いた喜びようを隠しえなかったわけです。
パンフレットもらってきたのだけどまとめるのがちょっと大変なので割愛。
「えー、そこ!割愛するなよー!」
って、思った方、今は楽天などのサイトで我慢してくださいませ。
で、これが土曜日の動き。
書きたいこととかがこの数日溜まっていて、感覚が消えそうなものから先に保存しておきます。
実は5月26日、水曜日の話。
実はばあちゃんがパーキンソン病を患っていて、片足がうまく動かせない。
手も少々震えるし、生活には相当支障をきたしている。
今は前の一軒家からうちのすぐ近くに越してきたのだけれど、寝室からトイレまでわずか5mほどしかない距離に歩行機を使用し30分ほどかかるという。
前の一軒家では、近所付き合いが活発で毎日のように隣の家の人がばあちゃんのことを見に来てくれていた。
毎日会話していた。
そこからたまにしか今度は近所の人が来なくなる。
当然うちの人は見に行くけれど24時間つきっきりというわけでもない。
最近は「寂しい」とも言うようになってきた。
何かと寂しがる。ヘルパーさんや介護師の人も来てくれるが赤の他人だ。
北海道の車庫や物置は最初から積雪に耐えられるように設計してあって、冬の間雪が降り積もっても潰れたりはしない。
前は一軒家だったが庭が雪で埋まってきたり車庫の上に雪が積もってくると除雪して欲しいとよく頼まれていた。
「雪に埋もれてしまうような気がしてくる」
という理由だった。
やる必要もないのに、わざわざそうやってやるのはいわゆる「心のケア」だと思ってやっていた。
いつもは母親がばあちゃんのことを見ているが今回ヨーロッパ旅行に出かけた。
2週間の日程でその間ばあちゃんはデイケアサービスの施設に泊まりにいったりばあちゃんの次女が面倒を見たりしてカバーしている。
最初行った日、料理の材料、いない間にダメになってしまう食べ物がないか探してばあちゃんの家の冷蔵庫をあけると、二ヶ月前に賞味期限の切れた生卵、一ヶ月以上前に切れたもずく酢、プリン、3ヶ月ほどたっている保冷室にあった豚肉などがあった。あと少々芽の出だした野菜。
それで生卵は特ににおいがしなくて焼いて食べてみた。
特に味にへんな所はないが、卵も白身もべしゃりとしすぎていた。
プリンはカラメルがやや白くなりかけていたが、こちらも特に変な味もにおいもしない。
もずく酢はさすがに味がぼやけていて劣化しかかっていた。
そういうものを食べていると、少しだけ気分が悪くなったのだけど妙な気分になってきた。
新鮮なものを体に摂取できるというのは、とても幸せなことなのだ。
ということだ。
それと同時に、新鮮ではないものを体に入れると心がフッと霞がかったのがわかった。
つまり、食べ物は体はもちろんのこと心にも影響していく。
新鮮なものを当然のように買えて調理して体に摂取できるという幸せのことを考えると同時に、ばあちゃんの気持ちもなんとなくわかって、精神がトリップしてしまった。
ばあちゃんはパーキンソン病で体がうまく動かせない。
今はデイケア、ヘルパーさんなどが来てくれているし、私の母親もばあちゃんのことを見ている。
しかし、もしその人たちがいなかったらばあちゃんはマンションの一室で孤立することになる。
料理はできない。当然、新鮮な野菜やお肉や果物なども買いにいけない。
そうなった時の不安と孤独を考えると、もう世界の中でたった一人ぼっちになってしまったかのような感情になってくる。
しかも助けてくれる人がいなければ、少々痛んでいようと冷蔵庫の中のものを食べるしかない。
70まで水泳のコーチをしていたほど元気で、70代でメニエール病を発祥し、水泳ができなくなってしまった。
そこからパーキンソン病。
以前の自分と比較しながらこんなはずではないと何度も思いながらも体がうまく動かせないジレンマと、もしひとりぼっちになってしまったらという孤独と不安を抱えて生きている。
うちのばあちゃんは、みんなで見ているけれど、じゃあ誰も見てくれない人はどうなのだろう。
孤独で不安で、痛んだものでも食べなければいけなくて、世界の中で自分しかいないかのような、誰も助けてくれないかのような無力感とともに生きているのではないだろうか。
その上で痛んだ食べ物を食べてでも生きる。
痛んだ食べ物を食べた時の心の濁ったような感触。
たとえば、これが子供だったとしたら。
新鮮な食べ物で作った料理ではなく、たとえば愛情のない料理だったとしたら、やはり心が濁ってしまうのではないだろうか。
おいしいものは確かにおいしいけれど、人の感情の成長には、きちんと人のぬくもりが直に感じられる様々なものが必要で、それらを感じながら新鮮な気持ちになっていくのではないかと深々と感じたのだ。
そのようなことを考えながら、トリップした孤独と不安な世界の雰囲気から自分を抜くのに一日中かかってしまった。
人と付き合うのは難しいかもしれないけれど、人がいないことにも人は耐えられない。
新鮮なものを口にできたり、人がいるっていうこと、きちんとぬくもりを感じられることの幸せを考えた瞬間だった。
[2回]
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