人間は常に自分の「感性」の範囲において物事を理解する側面がある。
そして、感性を逸脱するものに関しては、多大なる時間をかけなければ理解しないという特性も持つ。
たいていの人間は、時間をかけることにひどく苦痛を見出すので、結局は自分の感性の範疇に戻って理解しようと試みなければ、頭の中で整理できない。
強大な感性を持つ者…と言っても、それが「どんなものなのか」を説明するにはペンで地球を実寸台で点描するくらい困難なことなのだが、本当に能力のあるものは、目の前の「秋刀魚」に宇宙を見出す。
別に「秋刀魚」でなくともいいのだが、それが石ころでもりんごでもよい。
芸術家肌というのはその感性の強大さにおいて世界と戦い続ける。
感性というのは「心の核融合炉」である。
これは親指の第一関節くらいの大きさのウランで核爆弾を作れるように、たかが「秋刀魚」と普通の人が思うようなものに「宇宙」を爆発的な想像力で感性で見出すことができるのが芸術家の特性なのである。
なので、感性の部分については当事者ではない限り永遠に実寸台で伝えることができないし、優れた作品を残そうものならほとんどの人間は、その感性によって作られたものに翻弄され続ける。
そしてこの芸術家当事者と鑑賞者の「齟齬」こそ、「そご」とは食い違いや行き違いのことなのだが、これこそ新しい派生物を作る大きな原動力なのだが、通常の感性の持ち主は、一番最初に書いたように自分の感性において物事を理解しようとするので当然困惑することが多いし、やはり実寸台では理解できない。
よく考えてみれば、この「齟齬」こそ発信者と受信者の間に生まれる新しい力であるにも関わらず、我々は共通認識として強制的に「齟齬」をなくそうと試み、そして「齟齬」の生まれるものに関しては排除しようと無意識にでも圧力をかけようとする。
これは現代人がシステムというものをシンプルに遵守し社会の円滑さを求めるあまりに陥ったひとつの墓穴であるとも私は考える。
一対一の間柄であっても私たちはいつの間にか対人関係に「齟齬」が生まれていくことを恐れていくし、その解決方法を磨こうとする前に算数計算のように「切るべきか」「繋がるべきか」の計算を頭でしている。
それが「利益主義」だ。
社会という存在は、この「齟齬」を受け入れなければいけないし、対人と対人の間に生まれる「齟齬の力」というものを、もっと活用できる柔軟さがなければ当然罪がないにも関わらず死すべき人間が出てくるのは当然の帰結と考えるが今はよしておく。
アルコール、と題名を打ってしまって別のことが浮かんでしまったので上記の内容に…いや、関係しているのだが、正直悩んでいる。
悩みすぎて酒をあおりながら書いていると浮かんでしまったので書いたのだが、当初は「すれ違い」のことについて色々考えていた。
人は自分のことばかりを主張しがちだし、もちろん私も例外ではない。
相手の「伝えたいこと」を、きちんと「相手に伝えて自分のことも伝えていく」ということは結構訓練が必要だ。
これはたくさんの仲間の中に自然にいた人たちには「?」な話なのだが、私のような引きこもりというか、説明が面倒なので「引きこもり」で通すが、それに近い人には「現状」と照らし合わせてよく肌身でわかることだと思う。
さて、いわゆる「齟齬」の中には大きな苦痛がある。
それは現実的な手段においてかもしれないし、当然精神的なものであるかもしれない「齟齬」には、ある程度の苦痛が伴うのは絶対なのだが、私の場合その「苦痛」に大きく反応する。
様々な芸術家が己の「心の活動」において、死に至ったわけだがアルコール中毒とか本当に他人事ではないような感じが切実にするのである。
それは「心の核融合炉」が原子爆発を起こすからであるのだが、私の話ばかりしても、自縄自縛、どん底にまで落ち込みそうなので一般論に話を戻す。
最近「男と女とは一体何なのか」と考えるようになってきた。
女性は適齢期になれば「結婚」ということを自然と考え出す。
聞くに適齢期の女性は「この男性は結婚する意志があるのか」というのを鎌をかけて試すのだそうだ。
当然女性には身体的な事情により結婚というものを遅くとも35歳ぐらいまでに決めなければ精神的な焦りがひどいということは多くの人から聞いている共通認識だ。
この「結婚」や「男と女」の話にまで今回は広げないが、たとえば「して欲しいこと」「自分が望んでいること」がある場合、自分を主体にして相手を捉えていくのは避けられない認識であると思う。
自分の望んでいること、広く言う「認識」が知覚の範囲であるし、やはりこれを「感性」と置き換えても、これらのものから逸脱するものにはひどく理解への困難を伴う。
しかしこれを全肯定して「人は自らの望むべきことのみを追い続けるべきである」とは私は言えない。
なぜなら「齟齬」を「理解しようとする努力」の中にこそ「希望」や「未来」というものが語れると考えているからだ。
たとえそれが、理解できなくても、そこへ至ろうとする努力にこそ心打たれ「この人のために何かしてやりたい」と願い同じように努力しようとするのが人間の素晴らしさのだと私は信じたい。
私は「齟齬」の中にこそ「希望」があるのだと考えている。
当然感性の違いにおいて、理解できないもの、理解しがたいもの、理解しようとも思わないもの、などなどの中でひどく魂を傷つけられることは多い。
人間は仙人でも神様でもないので諦めもするし、傷つきたくないばかりに心を閉ざし、会話を閉ざし、赴くところ一心において主張ばかりを繰り返す愚かな存在であるかもしれない。
だからこそ少し立ち止まって「なぜすれ違うのか」、その「齟齬」の根本原因を真剣に考える機会があってもよいのではないか。
それを考える機会を可能な限り与え、そして自らも考え続けなければいけないのではないか。
こんな単純な願いでさえ届かず、自らはごちゃごちゃになって酒をあおる。
自ら願うことであるにも関わらず、放棄したくなる。
人はこんな「希望」と「現実」の間に生まれる「齟齬」にも、アルコールで誤魔化すようなことが多々あるのだ。
しかし、酔いが覚めた後、きちんと戦わなければなるまいと思うのだ。
これを読んだたった一人でも、自らが与えているものと受け取り手の間に生まれる「齟齬」を真剣に考えてくれることを願って、今日は酔っ払ってようやく平静を取り戻している廃人の私が記す。
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