気に入らないものに対してモノを言う。
まるで自分の考えていることが最優先されるべきだと錯覚しているかのように。
いや、そうじゃないんだろう。
もっと感情としては軽く、かつ重いのかもしれない。
つまり「相手のことを私は考えているのに軽んじられるはずがない」という「自分は尊重しても同じように相手を尊重しない」という軽さ。
小さなものは「こう思っているから素直に言う」というモノから、まるで「そうしなければならない」という「常識」という言葉を武器にした義務感まで。
「最近の若い者は~」
という言葉がある。
この「若者の姿を嘆く中年・老人」の姿は紀元前からあったそうだ。
これはある意味古今東西人間が繰り返してきた習性と言っていいのかもしれない。
ストレスは本当に様々なものを破壊する。
外に出さなければ自分を破壊していくし、誰かにぶつければ他人を破壊していく。
それだけ厄介なものだ。
私も耐え切れず内的破壊や外的破壊を繰り返してきた。
精神的に脆弱な人間であると痛感している。
人間は当然の事ながら自分が親しんできた、自分が心地よいと思ったものを基準にして、そして場合によっては、自己基準への同意の多数をもって他者を時として断罪する。
その時自分が無視されればより義務感を高め、自己の正当性が崩れないように相手が手をついて謝るまでやり込めるなど、悪質とも言っていい行為を繰り返す。
なぜだろう。
少なくとも私自身に限っては、異種のものが受け入れられない時、自分の考え方にひどく画一的なものがあったり、平常心のようで苛立っていたりする。
この世界には自分が認められないようなものがたくさん存在する。
私はそれをわざわざ穴をほじくってまで見に行って正そうとするのは精神的なコストが高すぎてやらない。
それをやる精神的な労力を考えると得るものが少ないからだ。
気に入らないものがあって当たり前なのだ。
それが酷く人を傷つけるものであれば声を上げざるをえないだろう。
しかし「不愉快なもの」はたくさんある。
当然と言っていいほど。
この日本の中であったとしてもだ。
しかしわざわざ正そうとする人は、その行為が労力を払ってでもメリットが出ると思っているからこそやるのだろうと考える。
彼らにとっての「メリット」とは何だろう。
「気晴らし」だろうか。
少なくとも対話もせずに双方にメリットが出るはずがない。
メリットが出るのは必ず「やり込めようとする側」だ。
前にスーパーのクレームの電話でおかしなものがあった。
「あんたたちが悪いんだから、そのことを俺は言いふらしていいんだよな。だって悪いのはあんたらだから」
逆らうわけにはいかないので、口ごもってしまったが、明らかにおかしな考えかただ。
悪いのはこちらだが、「言う」という「行為の責任」はこちら側にはない。
あくまでその人の「品性」の問題だ。
小さな子供たちでも、おそらく親の影響なのだろう。
「友達って~すべきであって、~しないのは友達じゃない」と考える子がいて驚いた。
つまり、この考え方は「契約」だ。
「当事者は相手側と関係するに当たり、次のように定められたことを守らなければいけないことを了承することとする」
という考え方だ。
人間関係は契約関係で維持されるものではない。
人間が表現するものも人間が存在することも契約によって維持されるものではない。
しかし現代人はどうもそう考えてはいないらしい。
いつの間にか「契約関係」に近い考え方をするようになっている。
だからこそ「契約を破ったあんたが悪いんだ。私じゃないでしょ」という勢いで怒りをたたえて来るのだ。
だからこそ「不愉快指数」も高く、烈火のごとくストレスを燃やし、相手を傷つけていく。
私は大きな問題だと思っているのは、その人間が破壊したものが当初の思っていたものとは大きくかけ離れ、まったく罪のないところまで破壊してしまっているのではないかという点だ。
人間自分が怒っている時は、だいたい自分が正しいと思っているので、うっかり他のものまで壊しても気がつかない。
精神的なものならなおさらだ。
過度なストレスは様々なものを破壊する。
本当に大事なものを破壊してしまうことがある。
そして一度精神が破壊されれば再生まで長い時間と労力を必要とする。
私はそれで10年以上も時間を費やした。
まず気に入らないものが出てきた時、相手(もしくは相手側の領域に携わる人たち)が納得するような客観的な証拠を提示できるかよく考えてほしい。
便利だからこそ、利便性の高い現代社会だからこそ、あらゆるところへ容易に悪意をぶつけられる。
人は負い目を多く背負って生きられるほど強くはない。
理不尽とそうでないものの境目は主観と客観にあるが、それを冷静に考えて発言する人間が情報化がなされるごとに抑圧されていくのは、とても嘆かわしいことであると考えている。
そしてもうひとつ言えることは、あらゆる権力は他者を抑圧するためにあるのではなく、常に生かし育てるための装置であることを考えない人がいるということにも、社会の未成熟さを感じざるを得ないわけだ。
人間のエゴが際限なく肥大すれば、ストレスもまた際限なく肥大するという現実を、自ら戒める人間は少ない。
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