いつも何か欠点があった時、すぐ他人は頭ごなしに批判し、その人を辞めさせろとか言う。
それはいいのだけれど、じゃあ例えば辞めさせたとしてその人以上の人がいるのかという問題は誰でも考えることだけど、批判した人はその人以上に努力しているのかな、と思う。
というのも、気に入らない人、欠点のある人、批判するのはよろしいし、排斥しようとするのもよしとしましょう。
でも、代わりに何者かがその人よりも良い仕事をしなければいけないのは当たり前なわけで、辞めさせるだけでは誰も育たないので結局焼け野原になるだけなのです。
だとすると、やっぱり代わりに、その人以上に努力して、その人よりも良い影響を世の中に与えていかなければ、社会は批判する人によって蝕まれるだけで、緩慢に壊死していくだけなのです。
批判する人は誰かを育てているのでしょうか。
代わりによい影響を与えられる何かを育てているのでしょうか。
私は創っていくという作業を通じて、合理的で根拠のある批判を心がけているし、まあ、これ、書評とか映画とか語っててよく難しいなと思うのですが、ある程度知識がないと批判や批評ってかなり難しいものなのです。
だいたい安易に批判する人に限って根拠がきちんと明示できない場合が多く、明らかな勉強不足であります。
インターネットが個人の道具になり、口から物を言うように簡単に気持ちが言えるようになる。
しかし、意見と気持ちの区別がつけられない人、思想と思いの境界線を混同している人、いっぱいいますね。
社会というのは人の感情で動いていますが、感情だけで動く社会はどれほど便利であろうと野蛮であります。
感情を論理的に語れば思想や根拠や意見になり、それが社会システムとしての妥当性を得るのだと思っている人も、少なからずいるようです。
実は破壊って凄く簡単なことなのです。
作るよりも短時間で終わるし、作るよりも力がいらない。
作るっていうのはアイディアから始まり、実効可能な状況を作り上げ、そして初めて作業に入れます。
壊すっていうのは一番最初のアイディアの部分が決定的に欠けているのです。
アイディアっていうのは面白いんですね。
英語で「idea」と書きます。
これは「イデア」とも言い換えられますが、簡単に日本語にすれば「理念」にもなりえるわけです。
ここでは「イデア」の哲学的な解釈は一切省きますが、通常は「理念」といえば「発想し、または実行していく上での根本的な考え方」ですね。
つまり「創造の前段階」として「アイディア」がある。
破壊だけする人には、この点が決定的に欠けていると思うのです。
だから次の段階にいつまで経っても移ることができないし、だいたい実行力のある人は口動かす前に体動かしているのです。
「理念」があるから。
創造性を社会が失うと滅びるしかないと私は考えています。
作るというのは「必要は発明の母」の考えで常に動いていきます。
つまり、「ないなら作ろう」です。
凄くシンプルな発想なんですね。
でも批判だけする人は「ないものはいずれ出てくるだろう」という打ち出の小槌みたいな発想をどこかしている。
私は本当にダメなものは牽制しなければいけないですが、それと同時に「創っていく」ということをしなければ、いずれ座して死ぬしか選択肢は残らなくなってくると考えています。
ダメだダメだダメだと繰り返した挙句、育つものの芽すら摘み取って、最後には作物も育たない荒野しか残らなかった、という結末ではダメな人が上に立つよりも絶望的であります。
道筋を作ってやらないと、自分たちの歩む道がなくなってしまいます。
野蛮人の末路は、だいたい決まっているような気もいたしますが、皆様はどうお考えでしょうか。
「悪党よりも 知恵働かにゃ 食われるだけの 善の金」
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