膨大な量の知識がこの世界には存在している。
それを全て知ることは不可能だし、ましてや「お前そんなことも知らないのか」という言葉を吐くということは逆説的に「いかに自分の了見が狭すぎるか」ということを露呈させているに等しい。というか、むしろ子供過ぎる。知ってなければいけないこともあるが、そっと差し出しておくのが大人でカッコいい。
知らないもの同士教えてあげるというのが最もな付き合い方だと私は思う。
この世界には知識だけを語って知恵を持たないものがいる。
「この人バカだなー」と思う時、その人は現実世界での感覚から知識を語るのではなく、知識から感覚を作り出そうとしている。
頭だけで作り出されたものに本当の叡智は存在しない。
「机上の空論」という言葉は知っていても、それがどんなものかは知らない。
私は「体験」にずっと耳を傾けている。
別に知識がなくても、世間では頭がいいと認められなくても、きちんと自分の体験から得た考え方や思いというものがあれば、それだけでその人の一つの個性、大事なもの、だと考えている。
そういう人は「バカ」とは言わない。
この世界は知識だけならいくらでも集めてくることができる。
それらしく感覚のない知識だけで作り出された血の通ってない「まがいもの」は量産できるだろう。
ただし本当の「叡智」は、そう簡単には量産できない。
その人が人生において培ってきたものを凝縮しなければいけないのだから、大変な作業なのだ。
だいたいそういうものって観察も含めて「実体験」だ。
自分で見聞きして感じたものを凝縮している。
知識をつけることは大事なことだ。
大いに人生に役立つことがこめられている。
しかし知識だけを無駄にむさぼり、自分の感覚からもそれたものを語ろうとする者はたいてい「バカ」だ。
あまり例外はなかったりする。
しかもそういう人に限って「感覚」が欠落しているので平気で人にも自分の知識を押し付けてこようとする。
しかし間違ってはいけないのは他人に向かって「バカだ」とは言わないことだ。
それは意味のないこと。
言ったところで機嫌が悪くなるだけだろう。
大事なのは「自分がバカなのではないか」と気がつく、考えてみる、ということだ。
自分の普段の素行を考え、「バカに成り下がっているのではないか」と省みることが「知識が板についてくる知恵への一歩」であるのだ。
と、まあ、自分のことをちゃんと見直せる人ってバカじゃなくて、それができない人がバカだから困るところなのだが。
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