※とあるゲームをずっとやってきての感想。
※スタンドアローン (stand-alone) とは、他の機器に依存せず独立で動作する環境の事。直訳では「孤立」を意味する。
いくつか、気がついたことがある。
バーチャル空間とは、現実空間とは感覚がまったく違うということ。
そして現実を背景にバーチャル空間でスタンスを保っていたはずが、いつの間にかバーチャル空間の中で現実感覚が切り離され、独立して存在し、中で新たに生成されたものが、現実空間へ逆輸入されるように、現実感覚へと摩り替わっていくこと。
距離を置いてみて、ようやくわかったことがある。
バーチャル空間は、現実感覚から切り離された一種異常な空間であるということ。
中で生成された価値観が、勢力を持ち、さも当然のごとく振舞われるということ。
そしてこの中の出来事は最後まで「スタンドアローン」でしかないということ。
今回はバーチャル空間と現実との話しをしようと思う。
下記の話は、私の考え方こそ「古臭い」考え方になっていくことは間違いないであろう。
しかし、この先どこかで気がつき、再燃してくるであろう問題であるとも思っている。
それは私が老人になるか、もしかしたら死んだ後かもしれない。
新聞記事に、最近若い世代の間で「シェアハウス」なるものが流行っているという。
アメリカなどでは別にルームシェア型のスタイルは珍しくはないだろうが、新聞記事にはこの手のシェアハウスが流行りだしてきているのは、人と距離をおきたい、しかし孤立はしたくない精神的なニーズがあっているため流行りだしてきているのではないか、との文面があった。
例えば、我々が組織に属している場合、その組織を率いる人間にはそれ相応の責任が伴う。
個人の利益を図っては罰せられるし、部下を持っていれば組織を不注意に不利益にさらすと、部下の生活や人生そのものがかかってくるため、責任を感じる。
そして組織に属する構成員も組織に無闇に不利益をこうむらせることは当然法で罰せられるし、会社に対して損害を与えるであろう行為を立て続けに行えば会社そのものが危うくなるために会社から解雇を言い渡されるであろう。その解雇は直接自分の生活に降りかかるために当然責任を感じて自分の不利益にならないように動くであろう。
これが当然の責任感であり社会性だ。
そして健全な社会性とは現実空間の中で常に練磨されるゆえに、一方通行ではなく相互対話、相互感覚の交換を常に試みている。
だから常に練磨されるし、練磨されるゆえに生産性も出てくる。
じゃなければ独善的な世界でしか成り立ちえない。これこそ「スタンドアローン」だ。
言葉で書くと当たり前に見えるようなものでも、バーチャル空間ではこの「社会性」がないし、現実の生活あってこそバーチャル空間があるのだから、当然優先順位は「自分の人生」になる。「自分の人生=現実」を優先してこそのバーチャル空間だ。
この力点がバーチャル空間になってしまえば「自分の人生=バーチャル空間」のような錯覚を受けるが、バーチャルはあくまでバーチャル(仮想、虚像)であり、現実空間が崩壊してしまってはバーチャル空間はありえない。
この理屈がわからない人はすでに危ない。
そしてこの理屈がわからない人は「現実空間で経験している五感情報が足りない」か精神的なバランスを欠いている。
しかし、先にも書いたようにシェアハウスが流行る背景を探り、今の若者、例えば東京のような超人口密集地帯で育ち、自然がなく人工物に囲まれ、ほぼそれが人生のすべてを構成していたり、あれほど人々が密集していても孤独感すら感じ、個別の一人一人が「他人同士」でしかないとしたら、社会で働くことは多大なストレスがあり、人との摩擦に疲れる背景もあったとしたら、最後の保険として自分の都合の良い距離感で人と繋がっていようとするのは当然の感情のようにも思える。
過度に密集した人口地帯に成り立った都会こそ、現代社会での「虚飾」そのものなのだから。
味覚の世界でさえ異常さに疑問を抱かない。
つまり、野菜の味や素材の味が均一化されていたり、チェーン店において地域が違っても店名が同じなら同じ名前のメニューを頼めば同じ味の食べ物が出てくるということだ。
庶民の味は均一の味を再現して大量生産をし、コストを下げている。
これは天候の力があったとしても非常に人工的な作業によって操作されて作られる。
化学調味料なども多用されお惣菜、食卓に至るまで多用されている。
しかし、より自然のものに近づけば近づくほど、目の飛び出るような値段を出して食べるか、現地生産したものを直接生産者などから取り寄せないといけない。
このように皮肉な事実さえも現実世界にあるほどだ。
話を元に戻すと、このバーチャル空間には「社会性」が存在しない、と言った。
いつまでもそこにしがみつく必要がないし、ある意味「リセット」ができるからだ。
目の前にリアルタイムで変わる人間の表情や細かな動きがあるわけでもない。声のトーンさえも知らない。
社会性のあるものは絶対にリセットできないし、理不尽なものが続いたとしても向き合い続けなければいけない。
そしてこのバーチャル空間での個別の一人一人は「孤独」を背景にしている人が多い。
私が接してきてその人たちの人生の背景を探るに、「孤独」が強く感じられることが多かった。
このバーチャル空間での個別の一人一人は「スタンドアローン」であって、「社会性」がない代わりに「感情的な利益」で結びつき、そして「感情的利益」ゆえに、ついたり離れたりを繰り返しているのだと感じた。
「感情的利益」とは「個人各々の感情的共通項」によって増幅を見せる「享楽感情」のことを言う。
「感情的な利益」が合致し組織ができて、あたかも「共有」している感覚があるが、我々は五感情報を交換しない限りは「個別の一人一人」にしか過ぎない。
思いも寄らない、しかしどこかで期待していた反応が得られるという刺激によって自分の中の「孤独感」を埋められるし、その孤独はもしかしたら現実世界での「敗北感」「羞恥心」「悔恨」「悲痛」が混じっているかもしれない。
「社会性」がない「組織」は、ただの「我々は一緒なのだ」という錯覚を作っているに過ぎない。
つまり現実世界のように「生産性」がないし、馴れ合いでしかない。
だからどこまでいっても「バーチャル」でしかない。
ゆえに「錯覚」や「虚飾」がどこまでもまかり通るし、集団においてどれだけおかしなことをされていても感情的に秩序が保たれていれば一応の正義は保たれる。逆にその秩序を乱すものこそ悪となる。それさえも「閉鎖的」ゆえに成り立っていることなのだと気がつかない。
もっと言えば嘘をついていても別に干渉しあわなければそれで済む話だし、美談を展開して面体を保っていればその通りに見えてくるし、現実世界で交わりあえなくても好きだということをほのめかし節度を守り続ければそれなりに好意的に見えてくる。
「ゲームだから楽しめればいい」
「辛かったらやめればいい」
「ゲームでそこまで考えることない」
上記のような言葉が出るのは当然ここは「虚像」や「システム」の一種なのだからということがわかりきっているからではないのか。
本当に社会性があり、現実性があり、その上での責任があるというのなら、もっと多くのものが生み出されているし、一年でもがんばれば多くの人を巻き込んで、その人たちの人生を変えていける。
だが、ここではできない。
それが、バーチャルでの限界だし、あくまで「虚像」なのだ。
当然そうなると「楽しんだもの勝ち」の理屈が正しくなるのは当然のことだ。独善的でも楽しめればいい。極端になればそれで成り立てば、それでいいのだ。
バーチャル空間に重きを置いて、ここで心の癒しができるから、よい思い出がたくさんできるから、現実でがんばれるのだということを力説する人もいたが、逆に私は先ほどの話を戻して、それでは現実が壊れたらそれでもゲームができるのかと問いたい。
常に基点としているのはバーチャル空間ではなくて、現実空間だということを忘れてはいけないし、錯覚してもいけない。
バーチャルはその名の通り「錯覚」「仮想」させる場所であることを忘れてはいけない。
つまりバーチャルとは「現実と類似した感情的想起」を促すことによって「脳情報に現実と同じ刺激を与える」場所なのだ。
それは現実ではない。なぜなら匂いも肌の感覚もない世界だから。
だから私は「五感情報が不足している」空間だと言う。
都市社会における閉鎖的情報操作や環境でさえ「虚飾」に満ち溢れ、ほぼ信用できるものは少なくなってきている社会が現実である今、広く感覚を得ている人ではない限り、このことを理解させるのは難しい。
わからない人には、ただ「日本から一度出て暮らしてみなさい」もしくは「田舎で暮らしてみなさい」としか言いようがない。
すべての人間がというわけではないが、このバーチャル空間にのめりこみ、長く過ごしている人の中では社会性の欠如が徐々に見られていく人もいた。特殊な例ではあったが、己の精神世界、感情想起のスパイラルに陥っていき、ついには大きな精神的な壁を構築していった。どのような人生の背景を持っていらっしゃるかは伺ったことがないので量りかねるところがあるが、推測するに徐々に身体が持っている五感情報よりもバーチャル空間で培われた精神活動のほうが大きくなっていったものと現時点では仮定している。
といっても、精神はより経験の多い身体情報を頼りに「外部情報を決定」していくものだから、その人の人生においては「どのような過去を過ごしてきたか」が文字通り「人生のすべて」であり「個人の価値基準」であるため、例えここで私が危ういですよ、間違いを犯すかもしれませんよ、と言っても通じないだろう。
そして未来はより人工的なものに五感がすべて浸されていくために、私の考えは「古臭い」ものに成り下がり、いずれ「人工物で囲まれて出来上がった価値観」こそ、「社会性を内包した常識感覚」になっていくであろう。
小さな仮想空間が見事にそのモデルを形成していったと思っている。私はそれをつぶさに見た。
だがそんな仮想や虚像に近い現実世界があったとしても、そこで成り立った個別の一人一人は、五感情報を交換し、共有する訓練ができていないために、よりコミュニケーション不全となり、新しいコミュニケーション方法の中で「スタンドアローン」となる可能性は否定できない。孤立から来る孤独を埋めるために、薄っぺらい人間関係の中で成り立つ瞬間を楽しんでいる。常に繋がりやすく切れやすいという諸刃の剣のような人間関係だということを理解しつつ。
「記憶」はどうやっても「脳内の一情報」になるために、バーチャルであろうと現実であろうと脳の刺激においては類似したものが流れる。ゆえにバーチャル空間は脳さえも錯覚するように作られている。
このような錯覚を起こさせる空間では「感情的利益」で結びついているため、真実や正義よりも、集団としての感情的秩序を保ったほうが利益が出るのは当たり前の世界になる。よって、個々人は「秩序」のために感情も本音も隠す。
今の日本社会はそれとそっくりだ。
その代わりに目に見える虚飾で装飾されていくが、それにすらも限界を感じる時が来るかもしれないと考えている。
その「感覚の欠乏感」を感じて初めて私たちは他者に対して壁を取り払い、プライベートへと進入し、五感情報を交換すべく、「好奇心」を持ち始めるのではないだろうか、と考えている。
好きになれば声を聞きたくなるとか、声を聞いて耳に振動が伝わってくると肌の感覚が欲しくなり会いたくなったりとか、会ってさらに気があったらもっと恋愛したくなるとか。
真実をより見せないほうが利益があるのならば、踏み込ませないだろうし、嘘の距離感で互いが満足しあうだろう。各々の距離感の取り方は当然各々に一任される。
そして人々の脳情報の中に「虚像」と「現実」が入り乱れるたびに、混乱をきたし、現実との境目は消えていく。
これからの時代は「虚像」と「現実」の感覚のバランスを取るのに、さぞ苦労し、苦悩するであろうことと思う。
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