実は7月の半分以上京都で過ごしていた。
取材でいってきたのだけれど、人を知るのは本当に大変。
ほとんど生活に密着するような感じで、相手の感覚から理解していかないと表出している考え方や価値観に振り回されてしまう。
私たちは体の感覚ひとつ、体力精神力が皆別々で、自分の体力精神力を尺度にして他人を見る生き物だから、まったく違う人がいて、自分よりも劣っていると感じたとき、否定から入るのが普通だ。
それだけ人は弱い。
私は弱者を救う力のなき知恵なきものや、自らの力を弱者を抑圧するために使う人間は、皆「弱い人」と認識しているので、そう言う。
札幌から関西まで随分近くなったものだと感じた。
今なら安い時で片道一万円以内でいけるのだから、本当に距離は遠くとも近くなったものだと驚くばかりだ。
関空着陸間近、恐らく明石海峡大橋だと思うが大きな橋が見えた。
晴天で岸和田の街なみなのかな、よく見えた。
空から人間の街を見るときミニチュアのように見える。
「これが人間の作ったものか。人一人でビル一つ作ることさえ出来ないのに凄いものだ」
と人間の力の大きさを実感すると同時に、
「あれでさえ、土の上の積み木にしか過ぎないのだから自然の力は恐ろしい」
とも思った。
間近で見たら余計に人の力の偉大さを思うだろう。
しかしその「偉大さ」でさえ、地球から見えれば「蟻のような力」でしか過ぎない。
人は人の尺度で物事を見て、いつの間にか傲慢さに飲まれていく。
人の一生使ったってビル一つ建てられるかわからないのに、それでさえたいしたことはないのだ。
京都ではちょうど祇園祭をやっていた。
山車(だし)が出るのは中旬だが、ほぼ一ヶ月近くは祇園祭期間中ということで、河原町には提灯が出ていた。
昼間はほとんど取材で出歩くことが出来なかったので、夜に出歩くことが多かったが、京都と札幌を比較してよくわかることが「文化の違い」だ。
当たり前のことなのだが、歴史が深いと一つ一つに意味が込められている。
その意味が読み解けない。
神社仏閣一つとってもそうだし、祇園祭では屏風を披露するという風習があるのだが、屏風絵を見ても読み解けない。
それだけ知識がなく、まったく歯が立たず、ぬくぬくと「新しい街」でたたずんでいたのだなと実感させられた。
伏見稲荷大社でも本宮祭があり、途中まで登ってきた。
山頂近くには薬力社があり、健康ゆで卵が売っていて、一つ食べたがおいしかった。
そこに住んでいるおじさん曰く、何故「健康」なのかという理由で、
「卵はスーパーで売っているような赤玉やけど、そこの薬力社の湧き水を使ってゆでてる。薬力社には無病息災、健康長寿などのご利益があるので、健康卵なんですって言うと納得してくれはる」と言っていた。
山頂近くのスーパードライ瓶ビール700円も高級な味でした。
「飲料水200円とか高い言うけどな、途中業者用の専用道路があるけど、あとは人の手で持ってくるんだから、その労力考えれば全然高くない」
一度登ればわかるけれど、結構足腰に来る段差が多い。
それなりに急な場所もあり、上になれば背負って持ってくるのだから、言っていることはよくわかる。
昔は下から全部人の手で持ってきていたそうな。
そんな想像をすると、つくづく大変だなと思う。
そのおじさん昔からそこに住んでいて生活しているのだそう。
薬力社サイトこのサイトでちょうど左に移っている家です。
京都の街で過ごして考えさせられたのは「文化」についてよく考えていなかったなということだった。
新しいものがどんどん出来てきて古いものが淘汰されるのは自然の摂理ではあるけれど、自分たちのルーツまで絶ってしまうのは愚かであると考える。
例えば私たちの生活を滅茶苦茶にしてしまうような何かが起こったとき、戻るべきよりべとなるのは文化である。
それは芸事ではなく、衣食住に含まれたものであり、そしてようやく安定したところに祭事など芸事が含まれてくる。
自分たちのルーツを確認し、我々が何者であるのかを確認するような作業の集大成が文化なのだと私は思っているので、ぜひまた京都に戻ってじっくり考え事でもしたいと思っている。
P.S.
写真撮ってたけどめちゃくちゃで、手振れひどいわ、うまく撮れてないわ、カメラの使い方からレンズまで、まったくのど素人写真。
こりゃ参ったなと、自分の知識のなさに愕然。
カメラの勉強もしたいと思います。
ああ、へたっぴー。
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