否定の暗示が強いと、行動する前に既に諦めている。
色々思い出した。
そういえば自分もそうだった。
例えば馬鹿のような扱いを受けて、ダメなようなことを暗に示されると、また、お前はたいしたことないようなことを何年も刷り込まれると、本当にそうなんだと自分で思い込むし、やる前から自分で否定していて、やってもできないのではないか、また、成功して褒められることに違和感があったり、否定の状態が普通になると、肯定されることが焼かれるごとく違和感があった。
落ち着くためには否定の状態に戻るしかなく、肯定の違和感をかなぐり捨てて、どうにかして元の否定されている状態に体が戻ろうと行動を始める。
これは恐ろしいほどの心の暗示だと自分でも思う。
つまりこれは肯定の状態の暗示の逆パターンだ。
逆境に立ち向かえる人は、そう心の力が常に働いている。
それと反対に、落ち続ける人もいる。
心の底で自分を否定しているからだ。
これと同じような事が社会でも呪詛のように垂れ流されていて、その否定の呪詛は今や当たり前となっている。
だから呪詛に近いということにも気がつかず、出来ないやつが悪いと「責任」という言葉で片付けられているが、そもそも人間の成長など他者と比較することなどできはしないし、他者と比較したところで持っている能力を伸ばすことなど出来はしない。
「出来ません」
この言葉は私にとって今やどうでもいい言葉になっている。
人間やりたければやるだろうし、やりたくなければやらない。
どうしてもやりたいと望むのならば、出来るまで根気よく続けさせるだけだ。
例え壊れている状態を普通だと思い込んで、完成に近くなればなるほど破壊したくなって、事実ご破算にしたとしても、またやればいいとひたすらやらせる。
そして壊すことが実はとても非生産的な事で、まずは完成させることの大事さと経験こそが生産的で創造的な事なのだと体に叩き込むしかない。
心理的癖については他者から与えられることも多く、その大部分は思春期に接してきた「親」または、それに近い状態の人間からつけられることがある。
人は癖がつくと、そうちょっとやそっとで直るものではない。
本当に長い時間をかけて、ようやく一癖直っていくものだと思っている。
それぐらい人の癖はやっかいで、ましてや否定的なものを心の中に持っているとしたら、そこに変化を与えることは努力に努力を重ねなければいけない。
世の中は競争を常にしていて、他者を出し抜くために日々努力している。
スピードで動いていて、自然と比較され、出来ない者は退場していく。
それは「金」のために動いていて、「金」のための競争で、「金」のための社会維持だ。
しかし私たちはそんな社会を懸命に作ってきて、それ以外の選択肢を失っていってしまうというのは、あまりにも一方通行過ぎて可能性がない。
広がりがなく狭まっていってしまう社会は、そっくりそのまま可能性も同時に狭めているということだ。
否定のない社会などないけれど、例えば否定する時、それが何のための否定で、どのような意図と目的と結果を推測しての言葉か説明する人間は極めて稀だし、相手側の知識や技量や環境まで考慮しての発言を出来る人間がいたとしたら、まず幸運だし、その人間を友とするべきであろうほど貴重だ。
多くの人は言いっぱなし。
挙句の果てには自分が他者を否定したことすら覚えていないほど適当で、それゆえに罪深い。
ようは、ただの衝動とストレス発散的な目的で、口から出てしまった後は、知らないよ君次第だし君の責任だからね、というような適当な気持ちで言う人が多いってことだ。
その証拠に多くの人は一年前何を否定していたかほとんど覚えていない。
そんな適当さに心を痛め、自己を長年否定し続け、人生すらも歪ませてしまう人だっているのだ。
私は人に助けられたけれど、助けてくれる人が現れない人だっている。
諦め癖がつくと、足を一歩、いや、指一本動かすのでさえ怖くなる。
それだけ強力な否定癖が心の底に植えつけられているからだ。
人間が誰しも逆境に打ち克てるなんて嘘です。
弱い人間もいる。
そんな弱い人間に、後は君死ぬしかないねと思わせるような社会ではいけないと思う。
しかし悲しいかな。
人間の評価は心理の積み重ねではなく、あくまで表出させた行動の積み重ねでしか改善されない。
[2回]
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