折り合い=
1 折り合うこと。譲り合って解決すること。
2 人と人との関係。仲。
そんな「折り合い」の話なのですが、先日酒に酔ってつまづき転んで左頬を擦りむくという失態を晒し、まったく酒との折り合いをつけることのできない私です。
何ヶ月かに一回こういうことやってますね。
おかげで傷だらけです。
人は大なり小なり欠点があり、やはり一所に生活をともにしていくと、嫌なところが見えてくるものですし、不本意な事も当然起きてきます。
それが当然なのですが、どうしても公の場所で接しているような感覚でプライベート空間を捉えてしまうと、それはもう我慢ならないことがたくさん出てくるでしょうし、生活スタイルや癖も違うのですから気に入らないものや気分を害することはたくさん出てきます。
子供の頃だと要求をつきつけ、それが叶えられないことに対し不満や愚痴や文句を言うものですが、大人になるとそうも言っていられず、「どうしたらこの状況が改善されるのか」ということへの積み重ねになってきます。
それを自ら実行できなければ、いくつになってもあれかよ、という目でだんだん見られがちになります。
大人になっていくというのは、折り合いをつけられるということだと思っていますが、よく言う「妥協していく」ということとは違うような気がいたします。
「妥協」の言葉の感覚とは、どうしても自分のやりたいことを諦めるようなイメージが付きまといます。
我や欲望を突き通そうとすると角が立ちますが、互いが互いのためにできることを熱心に探していくという立場だと、建設的なぶつかり合いができます。
かといって、これは両者の努力が必要ですから、片方だけがどうこう頑張っても、片方が相手を利用するような立場で甘んじていたら成り立ちようがありません。
昔は自分の「自己」というものが弱く、なかなか自分の意見を主張することができませんでした。
嫌われることや気分を損ねられることが怖くて、動悸が止まらないほどでしたから、もう条件反射的に人を警戒していたわけです。
そろそろ「若者」とは見られないような年になってきて、やりたいことも増えてくると自分の主張と信念がなければ、いくらでも他者にやりこまれてしまうわけです。
そうなってしまうと「創造性」すらも放棄することになってしまい「創造性」を放棄するということは自分に対する「人間的価値」の否定にも繋がることになると気がつきましたので、全力で何らかの手段を取るという反応が出来るようになりました。
といっても相手をやり込めるということとは違い、熱心に相手のことを知ろうとするという心構えが出来てきたというのも年を取ってきたなと思うところなのです。
以前ですと血の気が多く、プラスかマイナスか、どちらかにしかぶれることができず、怒りかもしくは悲しみかでしか人を見ることができませんでした。
無気力状態というのも長く経験しましたし、心の中の出来事ですから、誰もわからないわけですね。
皆さん、こんな風に心の中では色々ご苦労なさっていることかと思いますし、やはり「わかって欲しい」と少なからず願うものですから自分が懸命に努力したことは認めて欲しかったり、そこまでいかなくともさりげなくありがたく思って欲しいものです。
我欲が前面に出てしまうと折り合いをつけることも、なかなか難しくなりますが、出来ることはないかと探せるような知恵がついてくると少し面白くなってきます。
人と付き合うことは非常に面倒ではありますし、誰かや何かのために頭を使うことは大変です。
多くの場合「理由」を見つけるために、自分で納得するために、未来を勝手に推測などしたり、頭の中で理屈を様々こねくりまわして疲れ果ててしまったりするものですが、未来と確認していないことはすべて未定及び不確定であると考えると、わりと成すべきことがわかってきたりします。
中には、わからず聞くと「そんなこと聞くなよ」とつっけんどんに言ってくる人もいますが、基本聞かなければわからないし、一度でわかることなんて滅多にないし、接していなければ見失ってしまうのが人ですし、安心ですら未来への推測の部類に入りますから、不安はいくらでも想像により膨らんでくるものです。
様々な事に「折り合いをつけられる」ように成りたいと思うものですが、未熟なのが人間。
その未熟さに折り合いをつけられるようになると、より他人にも優しくなれるような気がいたします。
変化のないものなどありはしないのですから、変化を前提に気持ちを前向きに整えておくと今目の前にあるものに対しても多少なりとも好奇心をもてるような気がいたします。
いつまでたっても、私たち一人一人は不完全な個体であります。
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