「あー、死んでせいせいしたわ。いなくなってよかったよね。ようやく死んでくれた」
そこまでハッキリと言う人間がいなかっただけに、この手の言葉を吐く人間が本当にいるのだという実感が持てなかった。
しかし、いざ聞くと反吐が出る。
しかも自殺に追い込んだ当事者ともなると、人間的な価値を感じない。
ゴミか何かを八つ裂きにするような気持ちで暴力的な手段に出てもいいとすら思う。
「いじめはなくならない。他者を蹴落とすことで自分が生存するための優越感や安心感を得るものはいつの時代にもいる」
そういう人がいた。
確かにそうだろう。
動物界の中には自然といじめに近い行動を起こすものがいる。
いや、生存し、遺伝子を残すための本能的な行動を起こすから動物なのであろう。
しかし同種では共食いではない限り相手が死ぬまではやり込めない。いるのかもしれないが、私は知らない。巣の中から卵を蹴落とす雛がいることを知っているくらいだ。
人はいつから物理的な暴力以外、つまり言葉でやり込めることは暴力に該当しないと考えるようになったのだろうか。
そして直接手を下していない事柄に関して、いかように評価してもよいと思うようになったのだろうか。
むしろ古今東西そうであったのか。
善が存在する限り、悪が滅びることはない。
悪は常に善の対極としてあるのだから、善の存在こそ悪を浮き立たせ、悪の存在こそ善を浮き立たせるという相互関係にある。
自然の中を見ても、動物たちは食うか食われるかのしのぎを削っている。
人間だけが例外であろうはずがない。
一体人間はどの範囲まで理屈を広げ、どの範囲まで狭めてはいけないのか。
人間とその暴力に関しては人類が永遠に抱えるテーマかもしれないとすら思う。
人間は生きるためにあらゆる植物動物を殺し、生きている。
人間は人間に食われ、生きている。
複雑だ。
社会は相互の関係によって成り立っていると考えるのは、頭の中の夢物語なのだろうか。
役に立たないのはゴミで、人間として生きていく希望は与えられず、早く死んだほうが社会のお荷物にならずに済み、人間として命を持つ意味や意義を成さないのだろうか。
実際には搾取の構造があり、下種が好き勝手言い、優しい人間が死んでいってしまうような社会で、どれほど努力し訴えようと馬耳東風であり、自分には関係ない面倒な話としか受け取られないのだろうか。
そうじゃない。
私が接してきた人は、たとえ裏側で文句や非難を口にしていようと人がよくて、快くしゃべってくれて、時としてさりげないおもてなしもしてくれて、それぞれの想いにあふれていた。
そういう人たちだっているんだ。
どうして人間をモノ扱いしてしまうんだ。
自己憐憫が強くて、自分のみを守ることに長けていて、それでいて人の自尊心を奪うようなことしかしゃべらない悪辣な性格の人間は確かにいる。
でもそういう人間の言葉や感覚に合わせてはいけないんだ。
なぜなら次の犠牲者は自分の大事なものだったりするから。
それがモノではなく友達だったら?
大好きな人だったら?
その人を失ってもいいの?
そういうこと考えられなくなっている人が怖いし、感覚がわからない。
ただ、楽しいと思うのだろうか。
ただ、ゲームで勝ち続けるような作業でしかないのか。
死んで喜ぶという神経はどんなものなのだろう。
いじめはなくなることはない。
それはわかっている。
でも、どんな風に、気持ちを整理してよいのかがわからなくなるのだ。
はらわたが煮えくり返るとはこのことなのだろう。
今猛烈に苛立っている。
下衆がいなくなることはない。
だったら、どうやっていじめをなくしていくのか。
人の輪を使ったネットワークと、自らが悪意への耐性を持つくらいしか今はアイディアが浮かばない。
人を殺すのも人だが、人を救うのもまた人だ。
私はそれを体験した。
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