自分がまだまだ幼かった頃、自分が必死にもがいている頃、自分のその時の状態を否定されても、ただ自分のすべてを否定されたとしか感じなかった。
自分がなぜ、相手の不快を買っているのか、うすうすわかっても相手の出方まではわからなかった。
つまりは経験不足すぎて何もわからなかった。
何もわからない状態で、上からものを言われる苦痛というのを私は充分に知っている。
そして、「自分の思いで生きていって何が悪い」というような、孤立した独善性もよく知っている。
ゆえに、何も見えなかったのだと。
括弧書きのところは確かに悪くない。
しかし、他者への思いの使い方が大きく間違っていたのだ、ということを知るには、長い長い年月と苦しみを要した。
自分はよく物事を見ていると、思っていた。
それは自分が人のことをよく考えて、自分の立場からあれこれ、この人はどうだとか、自分なりに悩み、苦しんでいたからに他ならない。
その時、世界はあくまで私中心でしかなかった。
だから「自分の目」でしか見られなかった。
あくまで自分の世界から相手を考えていただけであって、相手の世界に飛び込んでまで物事を考えることはしなかった。
しようとしていたが、入り込み方がわからなかった。
私は色々と物を言う。
これはおかしいと思ったら、相手がショックだろうと傷つこうと言う。
その時恨まれても嫌われてもいいと思って言う。
「今このタイミングでこの人に言ってあげないと、誰が言うんだ」と。
妙な使命感を持つ。
それがたとえ通じなくてもいい、将来的に何も生かされないかもしれない。
しかし、言っておくことで、もしかしたらこの先どこかの瞬間で気がつくかもしれない。
私はこの一点のみに賭けて、あえて人に言う。
人は長い年月を要すると、感覚だけが残る。
「ああ、あの時あの人が確かあんなことを言った」
と思い出すのは、ひどく痛みを経験し、反省した時だ。
もし、反省や痛みがなければ、「賭け」も失敗に終わる。
つまりその人にとっては、ただ嫌な、苦痛としてしか残らない。
「生かしてほしい」とは願っても、「必要ない」と思われれば、言った言葉もその人にとっては「ゴミ」にしかならない。
後には、どんな言葉も、どんな思いも忘れ去られ、どんなことをされてきたのか、ということだけが残る。
そうなると一生誤解を解くことはできない。
でも、人間には未来がある。
生が続く限りは、可能性を信じなければいけない。
だからこそ、創造していかなければいけない。
人を破壊してはいけないんだ。
[1回]
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