”こういうことあるけど どう思う?”
それで済む話しではないのかもしれない。
それでも、私はそれだけでよかった。
あさかぜさんの文面は、なぜか以前のやり取りから、薄っすらと嫌味を乗せて、ネットリとした気持ちの悪い表現で、私を分析して、批評する。
あさかぜさんが置かれてる、状況・環境を無視したまま。
それが嫌だった。 その表現が。。。
だからあえて”私は・・・私は・・・”と言い続けた。
何も気づいてない、わからないと言っていても、言葉の中からあさかぜさんならそのくらい 簡単に読み取れるでしょう。
それでもあさかぜさんは私の分析に拘っている。
私が言葉に踊らされてる、そうわかっていてもそれを続けた。 そういうあさかぜさんの見下したような、面白がっているような姿勢が ただ嫌だった。
ある方に上記のような文面をいただき、思い当たるふしも多々ありすぎ、色々と思い悩む日々を過ごしておりました。
ずっとずっと考えていました。
人は悲劇が起こるまで、自分が痛みを背負うまで、もしくは必要とするまで、何も受け入れようとしないのか、と。
自分がどうしたらその人を受け入れられるのか。
話を聞く前から批判的になっていたのではないか。
自分も自分の状態を理解して欲しくて、伝わらず、ただ無意味なアドバイスを受けるだけの辛さを味わってきました。
「今の自分はそれどころじゃない」
それがわかってもらえず、心理的にもがくという日々を何年も体験しました。
その時は救ってくれるものを求めていたのは確かです。
リスクを話しても受け入れられないのはなぜでしょう。
私は何度も言った通りの結果になってきた人を見てきていつも思います。
「どうしてこうなる前に自分で気がつけなかったのか」
当然言った人すべてが言った通りになるわけではないので、よい方向へと変わっていく可能性もあるし、ひと時といえど「幸福」であることは真実であるということは間違いないのでしょう。
正直言うほうも楽じゃない。
見下しているわけでもないし、そうなって欲しくないという気持ちですが、余計なお世話だし甚だ不愉快なのはわかってます。
批判されることも嫌われることも覚悟で、言うことは正直傷つくし辛いです。
「たとえば、もうそれしか見えなくなっちゃった場合、いつ忠告に気がつくの?」
「ほとんど終わった後だね。その最中は何言われてもダメだよ」
かつて何も見えない、ぞっこん状態だった友達に聞くと、そう答えてくれました。
自分で「体験」しないと、わからない。
でも、それもわかる。
じっとそれを待つほうも、例えようもないほどのジレンマに陥る。
結果を見て、どっと落ち込む。
いつも、「何かできたのではないか」と悔やむ。
自分がどれだけ傷つけているのかも、どれほど傷つくのかも、体験しないとわからないだなんて、何故なのだろうと思う。
割り切れないけれど、現実は「体験した人」にしかわからない。
[1回]
PR
http://asakaze.blog.shinobi.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BF%A0%E5%91%8A%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%A7%E7%90%86%E8%A7%A3人の忠告よりも自分で理解