太宰治の文学は、正常な人間が読むものではない。
彼の精神の土台には、自己破壊ではなく、限りなく卑屈で低俗な精神が呪いのようにはびこっている。
その卑屈すぎる精神が自己破壊を生んでいるのだから、健全な精神の持ち主が、その文学性を否定するのは当たり前なのだ。
人間を見つめようとして、その精神を見つめ、人間が何でできているかということを突き詰め、それへの模索・答えへの道程で犯され、自己破壊的になっていくことは、純粋に文学性を見つめようとする人間にはありがちだし、日本の歴史においても数ある例が物語っている。
人間を純粋に受け入れようとするものは人間そのものに殺される。
人間失格は絶望を描いたような作品にとられるが、あれはアンチテーゼであって、いわゆるカタルシスにも似た、希望を描いた作品であると私は捉えている。
なぜ、最後にあの言葉があるのかと言うことを考えれば、やはり救いを描いたものであると捉えざるを得ない。
それが当時の太宰治にとって、死者のための救いだったのか、生きゆく者への救いであったのかは、もはや当時の彼しか知るよしもないが、彼の精神構造から考察するに、いわゆる精神病に近いような人間が、「表現をする」という行為は、自分の中にたまりこんでいるものを吐き出すという行為であるから、自分のための救いであったように考えられる。
実は人間失格を書こうと思っている。
自分の人生経験から、それを描くには充分なことを体験してきたと思っている。
そして私の中にも卑屈で女々しい精神をひけらかし、他人の悪意を受けようと耐えられる精神構造も出来上がってきている。
太宰治が「人間失格」で作家としての宿命をほぼ全うし、それを体現したというのなら、私は「人間失格」から始めようと思う。
私にはそれが似合っているし、このまごまごした状況に突破口を開けるとしたら、その強烈な一撃にかけるしかないと思う。
自分を考察し、自分の歴史にIFを加えることは、悲しみと苦しみをともなう作業ではあるけれど、いつかやらなければならないことだと思っていたから、ここでやらなければ、何も始まっていかないと思っている。
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